1 宮古街道と言ったり旧宮古街道というのはなぜですか。
 名前については、閉伊街道とか宮古街道と言います。また水産資源を沿岸から運んだことから、俗称で「五十集(いさば)の道」とも言います。ただ、現在の106号線の国道「宮古街道」と区別するために、旧道のことを「旧宮古街道」と呼ぶこともあります。
 また「街道の歴史」によれば、江戸時代の地方街道の呼び方については、それぞれの目的地の名前をつけて呼ぶのが一般的だったようです。「どこどこへの道(街道)」のように。道しるべなどに、その証拠がみられ「右かつの道」(つまり「右へいくと鹿角へ行く道」ということ)などの例が沢山あります。



2 宮古街道の地理

現在の盛岡市は昔、南部藩20万石の居城でした。そしてそこからほぼ真東に宮古市があり、盛岡と宮古を結ぶほぼ100キロメートルの道のりを指します。
 この街道は、北上山地をほぼ真横に横切り、区界峠(751m)が分水嶺となります。すなわち区界峠から西側は、区界峠を水源として簗川が西に流れています。区界峠から東側は、区界峠の田代放牧地付近を水源として閉伊川が宮古市にほぼ真東に流れています。宮古市では太平洋に注ぎます。現在の宮古街道は盛岡市から簗川をさかのぼり、区界峠にて今度は、閉伊川を宮古市まで下ることになります。



3 宮古街道の役割にはどんな役目があったのですか

まず第1に、沿岸の魚を内陸に運ぶ役目がありました。第2に北上山地の林産資源を運び出す役目があります。そして第3に江戸時代後期には、三陸沿岸への異国船の出没によって領内沿岸海防強化においても重要な軍事ルートだったようです。
 ただ、このような重要性を持つルートであったにも関わらず、伝馬往来のためには川や激流などの難所が多く整備が十分でなかったようです。



4 狭い道をどの様にして荷物を運んだんですか。

荷物は人が担ぐか牛の背につけて運んだと言われています。牛の背で運ぶことを駄送と言います。



5 道は1つしかなかったんですか。
いろんな山道などがあったようですが、次に紹介する3つのルートが基本になっていたようです。地図については概念図を参照してください。なお、この解説の出典は、「岩手県歴史の道調査報告書 宮古街道」です。
1 山中を行く江戸時代前期からのルート(今回探訪したルート)
   盛岡城下―八木田(やぎた)―高畑(たかばたけ)―大倉峠
2 1823年に五戸の豪商藤田武兵衛によって開削されたルート
  盛岡城下―砂溜―川目―宇曽沢ー戸中ー水沢ー曽利田ー区界ー松草ー平津戸
盛岡から簗川沿いに川目を通り、また区界を過ぎて松草から刈屋までは北上山地の準隆起平原「平頂峯」を巧みに利用したルート。地図をみてもらえばわかるように、1300m前後の山の峰々をほとんどアップダウンせずに上手に渡り歩いています。「歴史の道 宮古街道」では、沿線地元の古老から採取した話として、昔から南部牛方衆は峰々を自由に読みとり往来した近道を知っていて、これがのちに開発利用されるに及んで「塩の道」、あるいは「閉伊の鉄の道」とされたことを伝えています。
 この道も探訪してみたいですね。
3 城下から浅岸を経由して大きく北回りで宮古へ向かうもの。


6 街道は誰が管理したんですか。
 奥州街道などの大きな五つの街道(東海道、中山道、奥州道中、日光道中、甲州道中)は、とても大事な街道だったために江戸幕府直轄の管理下にありました。その街道専門の係の名前を「
道中奉行」(定員は二名)と言いました。これは今で言う国土交通省に相当するのではないかと思います。
 それに対して、五街道以外を脇街道と言い、これは幕府の
勘定奉行が管理にあたりました。これは今で言う大蔵省にあたるでしょうか。つまり道路専門の役職ではなかったのです。
 しかも奥州街道については、白河までが正式な奥州街道であり、それより北は脇街道扱いだったようです。一応、名称は奥州街道とか奥州道中と呼ばれていたらしいのですが。
 
しかし、道路管理の実体に即して言えば、賃金などの統制面だけが上記の奉行が担当し、街道の普請、橋の修理、並木の保護などの実際的な面は、沿道の大名たちの管理にあったらしいのです。
 従って五街道、脇街道ともに幕府と地元大名が二重に支配していたわけですが、さらに突き詰めて見てみると、最終的な責任は、すべて沿道の村が負担していたことになるらしいのです。
 例えば、こんな話が紹介されています。(街道の歴史 第四章第一節)
 1679年3月、奥州街道の松並木が荒れて、切れ目が出てきたので、幕府では役人を派遣して調べさせた上、それにふさわしい松を植えさせました。その人足費用は今回は幕府から出すが、並木の松が荒れるのは普段から注意が足りないからだとして、今後は並木を荒らしたならば、そのものの過失とするから、いつも注意を払い自然に枯れたり、風雨で倒木となったときは、
その所の者の責任で補植するように、と厳重に申しつけている。

そう言うわけで、幕府が一生懸命に道路を開削してくれたのではなくて、付近の村が必要に応じて道路の開発と維持管理にあったようです。宮古街道の道路開発には、特に鞭牛和尚はじめ沿道農民、山民の血と汗、一揆など苦難に満ちた歴史が刻み込まれている、と言われるのは決して誇張ではないことがわかりますね。



7 道路開発の歴史を簡単に紹介してください。





8  鞭牛和尚(べんぎゅうおしょう)って誰ですか。
閉伊川沿いの道路改修に生涯を捧げた和尚さん。詳細は宮古市の佐々木さんのホームページが詳しいのでそちらを参照してください。http://member.nifty.ne.jp/samasama/indexj.htm
旧宮古街道についての情報