長洞神社と古碑

  長洞(ながほら)神社は、写真090番。その横に長洞神社の古碑と呼ばれるものが三基ある(写真087と088番)。左が「南無阿弥陀仏」と書かれた供養塔。中央が梵語の古碑。右端に「山上作太夫」の碑がある。

  山上作太夫(一説には三太夫)は南部藩第29代重信の時代に、藩のお抱え力士となり、出世して大関にまでなった(当時は大関が最高位)。その当時全国一強いと言われた名古屋尾張公のお抱え力士、富士の山にも勝負で勝った。重信はこれを大いに喜び富士山よりも強いことから「山の上」と名乗らせた。しかし延宝四年、重信の長男行信がかごで帰宅の際に、六人でかごを担ぐのは面倒と、一人で担ぎ、さらに橋にさしかかったところで幼少だった行信を涼ませようとかごを橋の欄干の外へ差し出した。これが重信の怒りをかい、作太夫は盛岡に返され小鷹の刑場(盛岡市仙北町)で処刑された。この処刑の際、恨み切れない作太夫は「今後、南部領からは大関を出さない」と呪いの言葉を残して死んだという。(ここまで探訪の旅のパンフより引用)

  ここからは、前夜の講義からのメモ。三太夫はこの旧宮古街道沿いの七軒屋生まれ。当時の力士は藩主の用心棒のようなものだった。三太夫の姉(この人も力もちだったらしい)は滝沢村の先古に嫁いだ。南部藩の処刑場は、仙北町に首切りの刑場があり、蝶が森の裏手の今石というところにが弓の刑場があったらしい。それで三太夫は蝶が森で処刑されたのではないかとのこと。さらに、滝沢村に三太夫の墓があるのは、姉が滝沢村先古に嫁いでおり、罪人で亡くなった人の墓は市中に作ることができなかったので、姉が近くにあったお寺にお願いして埋葬したのではないか、と推察されるとのこと。よって、現在滝沢村鵜飼に墓があるとのこと。(以上 講義メモより)

   さて、次に真ん中の梵字のある古碑について。
梵字(古代インド文字)が刻まれている古碑は、種子塔と呼ばれており盛岡市内に4基ある。そしてこの長洞神社にある種子塔は、珍しい長文の碑で、1850年に建立されたもの。上部に大日如来を示すバンの梵字があり、下に「オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン」の6字があり、「本不生を証せる如来に帰命し奉る。大誓願」と意訳できるらしい。元は簗川小学校旧校舎横の長江寺跡にあったものを移設したらしい。岩質は粘板岩。(以上、「盛岡の古碑」より引用)

 左の南無阿弥陀佛の碑について
市内に建立されている古碑で一番数の多いのがこの名号塔(南無阿弥陀佛塔)で81基あるという。
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国道の下を歩いているのがわかる。
かなり近い場所まで接近している。
樹木はカラマツ。
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「長洞神社の古碑」と呼ばれるもの。
三基の内、中央のものと、右の「山上作太夫」の碑を撮影
09:07:54
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「長洞神社の古碑」と呼ばれるもの。
三基の内、中央のものと、左の「南無阿弥陀仏」の碑を撮影
09:08:01
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長洞神社

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「長洞神社の古碑」全景。
手前を走っているのが、旧宮古街道
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長洞神社の鳥居と古碑
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