鍛冶町一里塚元標・上の橋

  ござ九は、文化13年1813年に分家し燈明用の灯心売りをはじめにわら工芸品を扱うようになり、着々と発展し藩政末期までに南部藩に対して多額の献金をするようになっている。ちなみに天保元年から明治元年まで藩への献金額は2700両に達している。建物の表側は、道のカーブと一致するように緩やかにカーブしており、昔の豪商のおもむきを残し、裏側の土塀と倉は中津川に映える景観である。

   このあと、旧九十銀行、火の見櫓、上の橋擬宝珠などがあるのですが、すべての歴史的建造物を説明するとキリがないので、やめておきます。興味のある方は、自分で調べてみてください。

  ただ写真番号254にだけ言及しておきます。これは南部藩のすべての脇街道の起点をなす鍛冶町一里塚跡の碑です。現在はマンションの敷地内にありますが、碑文は道路から眺めることができます。これが今回の旧宮古街道の旅のゴールになります。ただし、ここで解散式をやる場所がなかったので、近くの上の橋のたもとの盛岡市営駐車場で解散式を行いました。

  偶然にも上の橋からサケの遡上を見かけることができました。サケは、川で生まれ生みで数年間暮らし、産卵のためにまた生まれた川へ戻ってきます。中津川のサケは太平洋に面した石巻市から北上川を約200キロのぼって、盛岡市内で中津川に入ってきます。他に支川は沢山あるというのによく自分の生まれた川を間違えないで遡上してくるものだと思います。私たちは今日、朝から歩いて24キロメートルかかってここに到着したましたが、サケのほうが偉いかも知れませんね。また江戸時代の人も皆健脚だったといいますね。松尾芭蕉なども奥の細道の旅に出たときにはすでに老齢だったにもかかわらず1日に40キロメートル歩くこともあったことが記録からわかっています。

  これで今回の旅の報告を終わりにしたいと思います。

  読んでくれた方へ。 ありがとうございました。
  
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旧九十銀行本店前を通過
16:21:16
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古い町並みの面影を残した店(ござ九)前を通過
その先は東北電力岩手支店
16:26:29
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存続か否かで議論がある火の見やぐら
16:27:59
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16:29:49
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本日のゴール
鍛冶町一里塚元標前にて説明を受ける
この先の市営上の橋駐車場にて解散
16:31:55
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南部藩(盛岡に居城)の街道の中心点
鍛冶町(かじちょう)一里塚跡

伊達藩でそれにあたるのは「芭蕉の辻」か
16:33:03
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16:33:11
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上の橋を通過
橋の上から遡上してきた
を撮影(画面中央)
サケは太平洋口の石巻から約200キロメートル遡上してこの盛岡市内で産卵のために息途絶える
このときも橋から大勢の人が眺めていた
16:35:47
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上の橋の擬宝珠(ぎぼし)
この先が本町(ほんちょう)
この道を進むと今度は奥州街道を青森に向かって北上していることになる
16:36:06
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擬宝珠です
京都の賀茂川にもあります
説明省略
16:37:51
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市営上の橋駐車場にて解散式
八田所長の挨拶
16:40:40
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一番手前の上下ブルーが今回の統導リーダ千葉指導員さん
ご苦労さまでした。時刻は4時41分。出発してから9時間30分でした。
16:41:00