十六羅漢・大慈清水・惣門・木津屋

いよいよ4号線バイパスを通って中に入ってきました。

  十六羅漢ですが、有名な報恩寺の五百羅漢と同様に餓死者の供養のためだったとのことです。天明や天保の飢饉の時は大変な数の餓死者が出たそうです。例えば、宝暦五年の低温の大凶作に発する大飢饉では、餓死者4万9千594人、悪疫などで亡くなった人を加えると六万人以上、馬などの斃死も2万頭を越したという。天明の飢饉では、4万8百50人、病死者2万3千人以上、明屋(あきや)1万500件、他領へ去る者3千3百人だったそうです。この時の藩の全人口が35万人だったので大変な数にのぼりますね。(以上、数字は岩手県史第5巻 飢饉と人口動態を参照)

 盛岡には昔城下へ入る主要な脇街道を固めるため惣門が設けられたと言います。惣門は簡単に言えば関所のようなものであったそうです。
   木津屋本店が有名なのはその建物が歴史的に古くおよそ江戸文政年間(1820年前後)に建てられた代表的な豪商の建築物であるからです。もともと木津屋の祖先は京都木津川のほとりにある木津村の出身で1635年以降に盛岡にきているとのこと。現在の位置に店を構えたのが3代目からであると言われており、現在まで300年以上続く名家です。店には防火防盗を防ぐために地下室を設けるなど様々な工夫が施されているとのことです。(歴史的建造物調査報告書 盛岡市市民生活部環境保全課を参照)

  大慈清水で喉を潤し、水筒に水をつめました。
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十六羅漢
15:53:08
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酒造会社前
ここで遠野街道と合流とのこと
T字路を右折して城下へ
左折すると遠野へ
15:55:44
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大慈清水(だいじしみず)

15:58:38
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大慈清水(だいじしみず)で休憩
この清水の裏あたりから奥州街道へのアクセスがあったとのこと
奥州街道へは新山船橋(しんざんふなばし)という船を繋いだ橋を渡って
北上川を越えなければならなかった
15:59:03
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歴史を感じさせる古い店が多い
16:01:43
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大慈寺町(だいいじじちょう)の看板
16:03:56
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盛岡のお城を守った惣門跡を示す石柱

16:04:12
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16:04:53
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豪商木津屋(きづや)の建造物
木津屋は近江出身の商人

16:08:20
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木津屋本店の入り口
16:08:35
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木津屋本店の歴史建造物
16:08:53
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現在の「南大通り」を横断して穀町へ入る
16:09:24
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穀町を進む踏査隊
16:12:53
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時刻は4時18分
16:18:16