砂溜(さだまり)古碑群・上小路を経て城下へ入る

 旧宮古街道と新宮古街道の分岐点(盛岡市川目砂溜39番地)には、庚申塔(260cm 写真miyako219)、南無阿弥陀仏供養碑(210cm 写真miyako220)をはじめとしていくつかの古碑があります。それでこの古碑の文字は宮古街道の変遷を物語る重要な事実を伝えていると言われています。「宮古街道調査報告書」と「盛岡の古碑」からその様子を簡単にまとめると次のようになります。

1 東中野村の人々によって建てられた庚申供養塔(写真番号219)は文化4年1807年の記名があり、そこには「右 か己め 宿」「左 みやこみち」と書かれている。

2 これは次のことを意味していると推測される。この碑の右方向(現在の106号線の簗川沿いルート)は当時、川目部落に行くだけの道で行き止まりだった。そして左方向へ行くと宮古街道を進むことになる。これは1823年まで続いた。

3 というのは、文政6年1823年に藤田武兵衛によって川目へ通じる道がつくられたという事実があるからである。(この武兵衛さんは、松草からは、さらに山の峰峯を通る山岳ルート(通称塩の道)を開拓している)。

4 川目村と東中野村の人々によって建てられた南無阿弥陀佛塔(写真番号220)には弘化2年1845年の記名があり、「右ハみやこ志んみち」「左ハミやこみち」(碑文に忠実に再現)とあります。

5 これは、1番で右は川目部落止まりだった道が新しく「宮古しんみち」となり、「左は従来のままの宮古へ行く道」として残っているということを示している。また藤田武兵衛さんの史実3を裏付ける資料となっている。


  盛岡市内、しかもこんな身近な街の中に巨大な古碑群があったのをまったく知らずにいたので、大変驚きました。

またもう一つ驚いたのは、写真番号223の古碑群から中野に向かう細道でした。もうすでに道というより軒先ののり面を歩いているようなものでしたが、家に帰ってから2万5千分の一の地図をみるとちゃんと点線マークでしたが道として表示してありました。ぜひ簡単な整備でもして残すべきだと思いました。今回のために少年自然の家のみなさんの事前の草刈りのおかげでかろうじて通ることができましたが、歩かなければすっかり草に埋もれて跡形もなくなってしまうだろうと感じました。写真番号224をご覧下さい。
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  miyako216
白滝橋の標柱
かつて中野村役場の門柱だったと伝えている
15:11:18
   miyako217
これは何をとったのか忘れてしまいました。
15:14:15
  miyako218
砂溜(さだまり)古碑群
宮古街道の道標
庚申供養塔などがあることが書いてある
盛岡市指定
明和7年と見えるので1770年今から230年前であることがわかる
15:24:01
  miyako219
庚申供養塔
かなり大きい
15:24:24
  miyako220
これは街道みちしるべ
中央に「南無阿弥陀仏」とあり、
見えにくいが、左右に道が書いてある
右の電柱のある方へ進むと宮古新道(簗川沿いをすすみ水分で山道と合流
左ハミやこみち(旧道のこと)とある
15:25:54
  miyako222
砂溜(さだまり)古碑群前の道路を
横断して狭い崖の下を通る
15:28:17
  miyako223
これが旧宮古街道
家の軒先をかすめていく感じ
しかし国土地理院の2万5千分の1には道が記してある。
15:28:43
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  miyako224
草をさけて通る
15:30:53
  miyako225
東山1丁目バス停前で国道106号線に交わる
国道から旧道を撮影(看板の下の左手の道がそれ)
15:33:15
  miyako226
国道を横切り簗川沿いに中野地区を進む
簗川もここまでくれば大きな川
向こうにサケを捕獲するための梁(ヤナ)が見える。簗川に梁で一句。「簗川にかける梁の瀬いかばかりかや」。「かける」でかけたんですけど、だめですね、出直してきます。
15:35:33
  miyako227
中野地区を通り中野小学校前を通り、国道4号線に出てこれを横断。いよいよ盛岡城下に近づいて来た。
15:43:04
  miyako228
交通量が多いので茶畑二丁目交差点を渡る
時刻は午後3時43分
出発してから8時間を過ぎている
15:43:30
  miyako229
国道を横断してから道を進む
15:44:40
  miyako230
上小路(うわこじ)を城下目指して進む
ゴールは近い。

しかし、普段この道は狭いため車でほとんど利用しないが、中野地区から参加した方によれば、昔(とっていってもその方が子供のころだから3,40年前には街の中心部に入る道はこれだけだったので、材木を積んだ大きなトラックなどが行き交いしていた生活になくてはならない重要な道だったとのこと。
15:47:08