賢治の略歴
- 1896年(明治29年)
岩手県稗貫郡川口町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。家業は古着商。
この年、三陸大津波、陸羽大地震、大洪水、大雨相次ぎ、死者多数。
- 1902年(明治35年) 6歳
赤痢で2週間入院。
この年も低温、冷雨、などにより東北地方大凶作。
- 1903年(明治36年) 7歳
花巻川口尋常小学校に入学。この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。
- 1909年(明治42年) 13歳
県立盛岡中学(現盛岡一高)入学。
親元を離れて、寄宿舎自彊寮(じきょうりょう)に入る。
このころ鉱物採取に熱中。
- 1911年(明治44年) 15歳
このころより短歌創作を始める。
- 1913年(大正2年) 17歳
新舎監排斥運動に加わったため、退寮を命じられて、清養院に下宿。
この年、未曾有の大凶作。
- 1914年(大正3年) 18歳
3月 盛岡中学卒業。
4月〜5月に岩手病院入院。
7月 進学希望をかなえられず、花巻に。
9月 進学が許可され、受験勉強に入る。
- 1915年 (大正4年) 19歳
盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席入学。
- 1917年 (大正5年) 21歳
同人誌「アザリア」を4人で発刊。前年より短編を書き始める。
- 1918年 (大正7年) 22歳
3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。
5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。
- 1919年 (大正8年) 23歳
4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで)
- 1921年 (大正10年) 25歳
1月 花巻を出奔して、東京生活を始める。
東京では、国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。
この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。
8月 妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。
12月 稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。
- 1922年 (大正11年) 26歳
童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。
11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。
- 1923年 (大正12年) 27歳
上京し、童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが、断られる。
- 1924年 (大正13年) 28歳
イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版。
- 1926年 (昭和元年) 30歳
花巻農学校依頼退職。
羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。
干ばつと水害が多い。
- 1927年 (昭和2年) 31歳
このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。
金融恐慌、銀行取付騒ぎ発生。
- 1928年 (昭和3年) 32歳
発病し、病臥。 農作物は干ばつのためほとんど全滅。
- 1931年 (昭和6年) 35歳
以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。
病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。
「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。
- 1932年 (昭和7年) 36歳
病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。
岩手県では、失業者・欠食児童増える。
- 1933年 (昭和8年) 37歳
9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。
9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。
午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。
以上の略歴は「群像 日本の作家12 宮沢賢治」(三木卓・他著 小学館 1990年)より抜粋させていただきました。
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