英語教育はなぜ間違うのか 山田雄一郎 ちくま新書 2005年2月刊より抜粋引用
(21世紀日本の構想懇談会 報告書「日本のフロンティアは日本の中にある」の「グローバル・リテラシー」に言及して)
物事が地球規模で交流する今日、言語力を重視し、それを育む事が大切だとい意見について異存はない。これからの日本は、相手の言葉によく耳を傾けると同時に、自らの意志を相手にわかる言葉で明確に伝えなければならない。そのために日本人が言語の能力を高めることは、大いに必要だと考えている。 しかし、その言語力とは必ずしも英語の力を意味しない。相手にわかる言葉で伝えるとは、自分の考えを論理的に表現するという意味であり、どの言語を用いるかは本質的な問題ではない。われわれがまず為すべきことは、日本語できちんと考え、相手が理解できる表現で論理的に意志を伝える能力を養うことである。 世界を相手にするとき、何よりもまず優先させなければならないのは、論理である。 相手にわかる言葉で語るというのは言うほど簡単ではない。偏見のない世界観と感情に流されない判断力が大切である。「世界へアクセスする能力」「世界と対話できる能力」とは、そのような世界観と判断力のことであって、ある特定の言葉を手に入れることとは別な問題である。 報告書は「世界と対話できる能力」を英語力と捉えているが、英語は表現手段に過ぎない。「世界と対話できる能力」とは、世界を視野に入れた、公平で堅固かつ柔軟な視座である。手段を目的と取り違えて、進むべき方向を見誤ってはならない。 (同書 pp15)
報告書も、「日本の戦略課題」という言葉を用いて英語習得の必要性を強調している。 しかし、このとらえ方は果たして正しいのだろうか。英語で世界を渡り合うと言うが、英語を武器に戦うのは危険である。英語は強力な武器のように見えるが、それを使いこなし、それで自分の身を守るのは並大抵のことではない。英語を規準に物事を判断するのでは、非英語国が英語国の前に立つことは不可能である。われわれが英語で彼らに勝てるとは到底思えない。またこのような争いで生まれるのは、英語を頂点とした階層化だけである。 われわれに必要なことは、誰を相手にしても堂々とひるまない心構えである。英語コンプレックスとか西洋人崇拝という言葉ではひとくくりにされないで済むような偏見のない態度と価値観を育てなければならない。英語が話せれば確かに便利である。自分の考えを世界の人に伝える機会も増えるだろう。しかし、その英語よりも大切なものは、伝えるべき内容である。
歯に衣を着せぬ評論で知られた山本夏彦は、現代日本人を揶揄して「にせ毛唐」と繰り返した。「にせ毛唐」とは穏やかではないが、山本の主張はもっともである。彼は、日本人が日本人としての姿勢を見失っているのを腹立たしく思ったのである。自分たちの言語や文化を犠牲にしてまで西洋人に同化したがる日本人を嘆いたのである。
義務教育の目的は、社会の求めるものに直接応じることではない。義務教育を、職業訓練と同列に扱ってはならない。仮に、英語が国際社会を切り抜けるための武器だとしても、それはあくまで考慮すべきことであって直接の目的にすべきものではない。義務教育は、学習者が将来、必要とするかも知れない諸能力を身につけるための準備期間である。十分な基礎訓練こそ大切にすべきで、いたずらに断片的知識を増やすことを目的にしてはいけない。
多くの人は、英会話能力を絶対視して、それこそが社会的な成功の鍵だと思いこんでいる。それは言い換えるなら、多くの人が自らの英会話力不足を劣等感に結びつけているということである。これは、誤った考え方である。英会話力などという特殊能力の有無をもって人を判断してはならない。 (中略) 学校英語教育の目的を英会話能力などに限定してはいけない。外国語の学習は、もっと豊かなものにつながっている。英語を丁寧に学習すれば、それまで見えなかった日本語が見えてくる。英語という言語が持っている広い世界は、われわれのものの見方に新しい視点を加えてくれる。それは英会話の暗記学習では得られない刺激的で魅力にあふれた世界である。学校英語教育が英会話学校のまねごとになってはならない。その目的は、学習指導要領にある通り、正しく「コミュニケーション能力の基礎を養う」(傍点は著者)ことに置かれなくてはならない。
私は、日本人の心には、いまも第一には、西欧がありアメリカがあると思っている。われわれの国際化には漠然とした西欧憧憬と、その具現としてのアメリカがつきまとっていると思っている。
英語と国際化が結びつけられるようになったのが、いつの頃のことなのかはわからない。ただ、この種の思い違いは、日本人の心のどこかに潜んでいて、事あるごとに顔を出す癖がある。例えば、小学校の国際理解教育がそうである。2002年の英語導入を前にして、研究開発校に指定された小学校ではいろいろな試みが重ねられていた。その1つが国際理解教育であるが、その実践を支える論理が、やはり怪しげなのである。和田稔の報告(1999年)によると「国際理解教育」と銘打って行われた授業は、すべて国際理解とは何の関係もない英語の授業であったという。
言語の学習には長い時間が必要である。そしてその長い時間の大部分は、ルールの発見とその応用練習が占めている。言語の学習は、本質的に単調な作業の繰り返しなのである。コミュニケーション能力の基礎とは、この単調な作業の繰り返しによって生まれる。母語の場合、退屈しなくて済むのは、習得が生活と直結しているからである。外国語学習が母語の習得過程を繰り返すことができない以上、単調で長い時間を避けることはできない。これは小学校英語といえども同じである。 外国語のコミュニケーション能力とは、その見返りとして手に入るものなのである。もっとも、言語の学習は、本来興味深いものであり、それにかかる長い時間は工夫次第で楽しく、かつ学習効果の高いものになる。その意味では、中学校の英語教育は大いに見直されなければならない。同時に小学校英語を単なる娯楽の時間にしてはならない。本当に楽しい英語学習とは、単調な訓練を楽しく感じさせてくれる知的な作業のことであり、ただ楽しく遊ぶことではない。
一般にネイティブスピーカー信仰は、どの国おいても根が深い。旧植民地の人々の間ではもちろん、植民地支配を被った経験のない日本人の間にも、白人憧憬と重なった英語のネイティブスピーカーに対する信頼は、一種病的と言ってよいほどものがある。ダグラス・ラミス(イデオロギーとしての英会話 展望2月号 1975)は、日本における英会話学校の実態を取り上げ、その差別性を指摘しながら次のように述べた。 たとえて言えば、native speaker(生まれつき話す人)という考え方がそもそも欺瞞である。特に営利を目的としている外国語学校は彼らのnative speakerがご自慢であり、彼らを広告に使う。けれども、native speakerという表現は、結果として「白人」を意味する暗号なのである。(その証拠に)あるnative speakerは英語が本来の言語ではないヨーロッパからやって来るのである。
日本の不思議な慣行の1つは、外国語教育をネイティブ(当該言語を母語している人)から学んでいないことである。例えば、アメリカでフランス語を習おうとすると、必ずフランス人に就くけれども、日本では英語を日本人から習っている。このような日本は、グローバル・スタンダードからはずれていると批判されている。(中略)日本人が本当にバイリンガルで自由自在に会話ができる民族になろうとするならば、日本人の教師が英語を教える今の教育の在り方を早急に改革しなければならない。 (出典:東北産業活性化センター(編)「国益を損なう英会話力不足 英語教育改革への提言」八朔社1999年刊13ページ) 乱暴な意見というほかはない。日本人の教師が英語を教えることがなぜグローバル・スタンダードからはずれるのか、誰がそのような批判をしているのか、日本人がなぜバイリンガルにならなければならないのかなどについては、右の本のどこにも書かれていない。 ただ、理論的かつ実証的根拠を欠いたこの種の意見は、「日本人は英語ができない」、「どうにかして英語ができるようになりたい」と思いこんでいる人々にとって「やはりそうだったのか」という得心とともに最後のよりどころとして受け入れられやすい。そうした精神的土壌は、ラミスの批判の以前から今日に至るまで、さしたる改良を加えられることなく受け継がれていると考えてよい。人の判断がものの外見に左右されやすいのは、日本人に限ったことではない。問題なのは、それが社会全体の特徴として世代を超えて受け継がれている点である。
ALTの要件 JETプログラムという事業をご存じだろうか。中学校や高校にいる英語ネイティブ・スピーカーは、このプログラムに従って配置されている。要するにALTと呼ばれる外国語指導助手や国際交流員の受け入れシステムである。JETプログラムは、昭和62年に始まった。(中略)2003年度では、招致国38,参加人数6273という発展を見せるほどに成長した。(中略) ところで、ALTとして来日している人たちは、どのような規準で選ばれているのだろうか。彼らが外国語教員ではなく、外国語指導助手と呼ばれているのには、それなりの理由がある。(中略) 学士号があればよいというだけで、外国語教育の経験などについてはどこにも触れられていない。(中略)このFAQを見た応募者たちは、どう思うだろう。日本を寛大な国として尊敬し、日本の英語教育のために貢献しようと大いに張り切るだろうか。それとも逆に、英語ネイティブ・スピーカーであることを幸いに、日本での生活を大いに楽しむことを考えるだろうか。
次に紹介するのは、「ガーディアン」(2000〜2001)に掲載されたJETプログラム紹介記事のいくつかである。イギリス人たちのJETプログラムに対する見方がよく表れていると思うが、読者はこれらの記事をどう受けとめるであろうか。(赤字は、この場合、著者の下線部を示す)
日本政府は、JETプログラムに基づき中・高等学校用にALTを募集している。ALTは、現在6000人ほどである。2001年度(原典のママ)からは英語が小学校に導入されえるようで、その需要が増すことが予想されている。外国人は日本人の相棒教師とティーム・ティーチングを行うことになり、年俸は2万3000ポンドである。(安倍注 1ポンド203円換算で年俸462万円)。驚いた話だが、この仕事に教師の資格は求められていない。応募にあたっては学士号があれば十分である。
大学を出て1〜2年間、外国政府(安倍注 日本政府のこと 募集は外務省)のために働くのはどうでしょう。仕事は比較的簡単なもので、経歴にもなります。十分な給料と観光のための時間が与えられます。しかも、ビザとか住居などの面倒は、すべて相手持ちです。そのお返しに期待されていることは、公立中・高等学校で教師の助手を務めることです。あなたが本当のキャリアを始めるのは、帰国後のことでよいのです。
外国人に英語を教えるのは、世界旅行と同時に金儲けができる絶好の手段です。(中略)コースを選ぶときには、自分が本当に必要としてるものを見つけることです。かりにあなたが英語を教えたいと思っているなら、その目的にあった、たとえば、修士号とか資格免状(diploma)を取れるコースを選ぶことです。しかし、もし世界を旅行するのが目的なら、教育技術のイロハを授けてくれる短期コースを選ぶことです。日本のような国では、英語のネイティブ・スピーカーでありさえすれば教師資格が無くても雇ってくれるのです。しかし、ほとんどの国では教師資格が要求されます。
JETプログラム 何もしないで金儲け? 日本における英語教師の役割は、たとえて言えばサーカス役者。子どもを喜ばすために自転車に乗って登場するピエロ、遠い国からやってきたエイリアン。(中略)給料と諸条件を入念にチェックすること。学士号さえあればよい。もっとも最近では、上の資格がないとよい仕事にはありつけない。金の話をするなら、たいていの奴はなにがしかため込んでいる。飲んでり食ったりで遊び回らなければの話だが。日本に来るときは笑顔で、日本語をちょっと勉強すること、間違っても伝統と誇りを持った国を変えようとは思わないように。これを守るなら帰るときも笑顔。ボブは、JETプログラムで二年間辛抱した現在、○○大学の客員教授になってるよ。
これらは、決していかがわしい金儲けを持ちかける広告ではない。かりにも日本の政府が後押しするれっきとした教育事業を紹介する文章である。(中略)こうした事態は、決して好ましいものではない。日本人がALTに対して抱いているイメージは、ALTの日本や日本人に対するイメージとは大きくかけ離れているかも知れないのである。(中略)国際理解は、相互理解である。ALTに代表されるネイティブ・スピーカーは、その最前線に立って生徒たちと向き合っている。 |