中学生の皆さんと共同学習の記録

滋賀県のN中学校のみなさんと一緒に勉強しました。
このやり取りは1999年12月から2000年3月にかけて行われたものからの、一部を抜粋しました。
なお、学校名と生徒名は仮称にしてあります。


12月15日 16時53分受信
安倍冨士男先生

初めまして、ぼくらはN中学校3年6組の佐藤、鈴木、田中です。
突然のメ−ルをお許し下さい。

今僕たちは、国語の学習で芭蕉の旅のル−トについて調べています。

その調査をして、疑問がわいてきたことがあります。
それは、なぜ芭蕉があんなに行きたがっていた松島を
ほぼ素通りで行ってしまったのかがわかりません。
一体、何かあったのでしょうか?
そのことについて、先生の考えや、知っておられること
を教えていただきたいのです。

大変お忙しいとは思いますが、どうかお返事をお願いします。

12月17日 午前11時23分 送信

N中学校3年6組の佐藤、鈴木、田中さんへ
----- Original Message -----
From: N JuniorHighSchool
> 今僕たちは、国語の学習で芭蕉の旅のル−トについて
> 調べています。
> その調査をして、疑問がわいてきたことがあります。
> それは、なぜ芭蕉があんなに行きたがっていた松島を
> ほぼ素通りで行ってしまったのかがわかりません。
> 一体、何かあったのでしょうか?
> そのことについて、先生の考えや、知っておられること
> を教えていただきたいのです。
> 大変お忙しいとは思いますが、どうかお返事をお願いします。

まず、芭蕉は松島を素通りしていたのではなく、塩竃から船にのって
松島にたどり着いています。そしていろいろなものを詳細に見ています。
 それで、みなさんからの質問の意味は、なぜ松島で句を詠まなかったのか、
という風に解釈します。
すると3つ考えがあります。

1つめは、松島でいろいろなものを見過ぎた結果、感動が強すぎて
あえて句を詠まなかったのではないかと考えられます。
 それは忙しかったからという意味ではなくて、いにしえの人々の歴史や魂、
素晴らしい自然の景観にふれて、芭蕉は大いに感動し自分の中からわき出る
魂の叫びとしての句が、浮かび上がらなかったのではないでしょうか。
 芭蕉は徹頭徹尾、俳句を芸術に高めようとした人、しかも自分流の
俳句(蕉風)を確立しようとして旅に命をかけた人ですから、たとえいろいろな
秀句が出たにしても、自分に満足しなかったのではないでしょうか。
 松島の自然美、またいにしえの人々の句や歴史的建造物、名もない庵の址などを
見て、いにしえ人に匹敵するような、あるいはそれを越えるような句を残したいと
芭蕉なら願ったはずです。
 すると単なる秀句ではすまされなくなり、自分の旅でも1,2となるような素晴ら
しい句をあれこれ吟味しているうちに、句を残すことができなくなったのではないかと思いま
す。(山口誓子という人が、松島のことはふれていませんが、同じような趣旨を言ってい
ます。)

2つめは、「芭蕉忍者説」です。芭蕉の奥の細道の旅の目的の1つは、まちがいなく
松島をみることだったのですが、句を残さなかったのは、当時、力の強かった
伊達政宗の菩提寺である瑞巌寺やその他の建造物を、偵察するのに忙しすぎて
結局、句を残せなかったという説です。
(井沢元彦さんがこれとおなじようなことを述べています。)

3つめは、松島にがっかりして句を残せなかったのではないかという説です。
松島を訪ねることが、奥の細道の目的の1つだったのですが、当時世間で有名だと
言われている松島に来てみたら、魂を揺さぶる詩的感動は起こらなかったということ
です。
 芭蕉の松島のくだりは、非常に格調が高く名文ですが、どうしてそんなに高く評価す
るのかと疑問に思っている人もいます。
例えば、森本哲郎という人が次のように述べています。(森本哲郎 おくのほそ道行 平凡社 86p)
 「おくのほそ道」のなかでもとくに格調の高いとされている松島の叙景に、私が妙に
ひっかかったのは、前年にその洞庭・西湖を訪ねたせいかもしれない。
岳陽楼からながめた洞庭湖は、およそ松島とはくらべものにならないのである。
だいいち、洞庭湖は「八百里洞庭」と呼ばれているように途方もなく大きな、天に連
なる黄水の湖である。それに対して松島は、たかだか「江の中三里」ではないか。
(中略)このふたつを実見してきた目には、芭蕉のこういった表現が、何とも奇妙に
思えるのだ。(引用終わり)
 私は松島の隣町の生まれで松島は子供の頃からよく行っておりわかるのですが、
年間に春夏秋冬を問わず、何十万人もの人が訪れます。そしていつも人でごった返し
ていて交通渋滞は起こるし、どこへ行っても人は沢山いるし、なぜ全国からこれほど人が集
まるのだろうか、と思っておりました。時代は300年も違うのですが、森本さんの言うこ
ともわからないこともないな、と思っています。

私自身の考えは、1つめの説です。「松島を詠む」ということは、死ぬことさえ覚悟
して旅にでた芭蕉にとっては、まさに生きるか死ぬかの問題だったはずです。
そうしたギリギリの極限の中で、想像を絶する芸術的な格闘が芭蕉の心の中にあって
結局、納得する句を残さなかったのではないかと考えています。
 5・7・5の非常に短い詩形ですが、俳句を詠む人にとっては(ただし一流の
人)、まさに血の出るような思いで句を詠んでいるのはないかと推察します。
 偉大な画家が、完成した絵を満足がいかずに破り捨てるように、また彫刻家が
できあがった作品に満足しないときには、いとも簡単に壊してしまうように、
そんな思いがあったのではないでしょうか。

佐藤、鈴木、田中さんたちは、どのように思われますか。
ぜひ、考えを聞かせて頂きたいと思います。

では、失礼します。
--------------------------
盛岡白百合学園中学高等学校
安倍冨士男
phone 019 661-6330 fax 019 661-9923
abe@morioka-shirayuri.morioka.iwate.jp
http://sanriku.mcon.ne.jp/

12月15日 16時53分受信

安倍冨士男先生
はじめまして、
僕たちは滋賀県N中学校3年6組2班の遠藤、木村、大澤です。

今、僕たちは、国語の授業で芭蕉について調べています。
主に旅の目的について探ってみたいと思いビデオを見たところ、
奥の細道と、同行していた曽良という人の旅日記とに
くいちがいがあったということを知りました。

そのビデオでは、芭蕉が伊達藩の内情を探っていた様なことを言っ
ていたので、安倍先生のご意見をうかがいたいと思いメ−ルを送ら
していただきました。

安倍先生のホ−ムペ−ジの「芭蕉は忍者だった?」
を見て興味を持ったので、みんなで意見を出し合いました。
安倍先生はどう思われますか?
1.伊賀地方出身。(ハットリ君と同じ)
2.40代のくせに全国を歩いた脚力。
3.鋭い目つき。
4.伊達藩の内情を探っていたという噂。
お返事お待ちしています。よろしくお願いします@



12月17日 午前11時24分 送信
滋賀県N中学校3年6組2班の遠藤、木村、大澤さんへ
盛岡白百合学園中学高等学校の安倍冨士男です。

----- Original Message -----
From: N JuniorHighSchool
> 今、僕たちは、国語の授業で芭蕉について調べています。
> 主に旅の目的について探ってみたいと思いビデオを見たところ、
> 奥の細道と、同行していた曽良という人の旅日記とに
> くいちがいがあったということを知りました。
>
> そのビデオでは、芭蕉が伊達藩の内情を探っていた様なことを言っ
> ていたので、安倍先生のご意見をうかがいたいと思いメ−ルを送ら
> していただきました。
>
> 安倍先生のホ−ムペ−ジの「芭蕉は忍者だった?」
> を見て興味を持ったので、みんなで意見を出し合い
> ました。
> 安倍先生はどう思われますか?
> 1.伊賀地方出身。(ハットリ君と同じ)
> 2.40代のくせに全国を歩いた脚力。
> 3.鋭い目つき。
> 4.伊達藩の内情を探っていたという噂。
> お返事お待ちしています。よろしくお願いします@

そのビデオ見てみたいですね。

今、学校にいて資料は家においてあるので、家に帰ってから
もう一度、メールを書きますが、(今日の授業に間に合うように)
意見を書きます。

 芭蕉の幼少時代があまり記録に残っていないために、
そしていろいろな条件も相まって)芭蕉忍者説がありますね。
ご指摘のように、伊賀出身、素晴らしい脚力、松島でいろいろ見ているなど。
 でも私はちがうような気がしています。

(旅に何回も出たのはなぜか?)
江戸に安住していたのではなかなか
思ったように句を述べることができずに、俳句を1つの芸術に高めるために、
いろいろな旅に出たと思っています。
 当時、江戸は非常ににぎやかで人口も急速に増えて、天下太平の世の中に
なっていたのですが、俳句のような非常にシンプルな芸術は、やはりシンプルな
(簡素な)生活をしていないと生まれないのではないかと考えるからです。
 身の回りがあんまりにぎやかだと、自然やいにしえの人々の感動に素直に
耳を傾けることができなくなるのではないでしょうか。
 つまりListen to the Nature(自然に耳を傾けよ)を実践するために、旅に
出たと思います。

(脚力がすごい!)
 高齢の割に、素晴らしい脚力ですね。ただ今から300年も前の人は
移動手段は足が主で(他に馬、船など)かなり現代の我々が想像できないほど、
足が丈夫だったと思います。そして芭蕉はその中でもかなり足が丈夫なほうだったと
思います。伊能忠敬という人も50歳をすぎてから全国を地図を作るために
踏破していますよね。やはり目的を持った人は違うなあ、と思います。
 ただ、持病もあって、旅にはかなり疲れていたことが、「おくの細道」の文章から
読みとれますので、そんなに超人(つまり忍者)的ではなかったではないでしょう
か。

(伊達藩の内情を探っていた?!)
 伊達藩の内情を探っていたのではなくて、いにしえの人々の足跡、歌枕を
訪ねあるくと、どうしても伊達藩の重要な部分を訪ね歩くことになってしまった
ということになったのではないでしょうか。

一般に、「●●である」という証明よりも、「●●では、ない」という証明の方が難
しいと言われています。
ですから、芭蕉が忍者ではなかったと言い切ることはできないし、そのように考える
こともまた楽しいですね。

すみません。ゆっくりお返事する時間がなくて。またメールします。

追伸
 こちら岩手には、「義経=チンギスハン説」というのもあります。義経は岩手県の
平泉で自害したのですが、その後、三陸海岸から北海道に渡って、さらに大陸に渡って
チンギスハンになった。というものです。
 おもしろいですね。

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盛岡白百合学園中学高等学校
安倍冨士男
phone 019 661-6330 fax 019 661-9923
abe@morioka-shirayuri.morioka.iwate.jp
http://sanriku.mcon.ne.jp/
 
12月16日 15時30分 受信
安倍富士男先生

初めまして。

突然のメールをお許し下さい。僕たちは、N中学校の
3年5組4班の近藤、今村、時田、金子です。

今、僕たちは国語の授業で「奥の細道」についての学習をしています。
僕たちの班は平泉での芭蕉の活動、立ち寄った場所、出会った人々に
ついてのレポートをまとめています。

そこでお願いがあります。平泉での芭蕉が立ち寄った場所の写真や、
そこについての資料を送っていただけるとうれしいです。

大変お忙しいと思いますが、今週中に返事を送っていただけると、僕
たちも大変助かるので、どうぞよろしくお願いします。

では、失礼します。

12月20日 16時1分 送信
3年5組4班の近藤、今村、時田、金子さんへ

盛岡白百合の安倍です。
先ほど、3時55分ごろ、平泉のデータをサーバーにアップロードしたので、
みて下さい。
 間に合ったでしょうか。午前中に課外が終わってそれから、地図つくりと
多少の文字の修正を行うだけでよかったのですが、いろいろなことが
仕事の間に入ってきて、それを処理しているうちに私の予定より
30分ほど、遅れてしまいました。ゴメンナサイ。
 もうあきらめて帰ってしまったでしょうかねえ。(心配です)

12月20日 22時10分 送信
北中学校3年6組2班の遠藤、木村、大澤さんへ
----- Original Message -----
From: Nagahama Kita
> 安倍先生のホ−ムペ−ジの「芭蕉は忍者だった?」
> を見て興味を持ったので、みんなで意見を出し合い
> ました。
> 安倍先生はどう思われますか?

井沢元彦さんの「芭蕉忍者説の周辺」(奥の細道の旅 講談社 146ページ)の
概略を紹介します。

1 日本の芸能のルーツは傀儡子(くぐつ)である。
平安時代の学者大江国房「傀儡子記」から、当時、傀儡子は定住せずに
テントを住居として、遊芸に巧みで狩りが得意であったとのこと。
例証としてジプシーをあげている。

2 忍者とは何か。
その発生は、「奇術と武術」の2つである。
奇術は芸能に通じる。

3 傀儡子の中でも踊りの得意な者は、猿楽に発展した可能性がある。
(猿楽は観阿弥・世阿弥によって能に発展した。)

4 その観阿弥の生まれは、伊賀で服部支族の生まれ。
(服部半蔵も伊賀の生まれ。)
服部というのは大陸から帰化した人々の系統である。
傀儡子も(証拠はないがおそらく)帰化した人々の末裔だろう。

まとめると、日本の芸能の源流には傀儡子がいて、芸能も忍術もそこから発生した
可能性がある。芸能も忍術も母胎は同じである。従って忍者は芸能にも熟達していた。

5 忍者の変装パターンは大きく分けて7つ。
出家(僧)、山伏、虚無僧、放下師(ほうげし・奇術師)、猿楽師(俳優)、行商人、常ノ方。
放下師、猿楽師が入っているということは、忍者もこれに化ける相当な素養を持っていた。

6 広い意味の猿楽師の中には俳諧師(俳人)も入る。
猿楽師は能も謡(うたい)もやるし、連歌や俳句もやった。
戦国時代の連歌師は、諸大名のもとに出入りし情報を運んでいた。
(俳諧師もたぶん同じであったろう)

7 忍術には陰忍(いんにん)と陽忍があり、隠れて行動するのが陰忍で、
変装して(場合によっては、ある職業になりきって)行動するのが陽忍。

8 芭蕉は、完全に俳諧の大名人になってしまった陽忍の忍者の可能性。

例証として
1 松島の瑞巌寺を念入りに見学しているが、当時、瑞巌寺は伊達藩の隠し要塞で
あった可能性がある。
2 恐るべき健脚。
1日に40qから50qを歩いたことになるが、これは常人には不可能で忍者なら可能。
しかし、井沢元彦さんは、これを「奥の細道」があとから紀行文として整えられた際に生じた
矛盾であるから証拠にはならないとしている。

以上が、井沢さんの文章の概略です。わかったようなわからないような。(笑)

私は、専門家ではありませんから、資料を揃えて「こうなんですよ!」と言える立場
ではありません。ただ素人の私が思うには、芭蕉が忍者であってもなくても「奥の細
道」の文学作品としての価値はまったく変わらないということです。。
 (むしろ本性が忍者だとしたら、かえってすごい人だということになるかも知れませ
んね。)
以上で回答のつもりで書きましたが、よろしいでしょうか?
 
ところで、皆さん。話は変わりますが、
もし時間があったら(中学三年生なので高校受験が終わったら?)
日本の歌や踊りの歴史を調べて見ませんか。
井沢元彦さんが言及していた日本の芸能、
つまり傀儡子、和歌、連歌、能、狂言、短歌、俳句から現代日本の演歌やロックまで
の発展と消滅を図に表してみると、おもしろいのではないでしょうか。
(私も時間があればやってみたいと思っています。傀儡子から宇多田ヒカルまでずっ
と年表にまとめていったら、きっと楽しい「日本の芸能2000年史」ができると思い
ます。)
中学の国語の資料集などに、芸能の歴史など簡潔にまとまっていないでしょうか?
もしあったら教えて下さい。

追伸:
傀儡子は、「かいらいし」とも読むようです。私の辞書(電子辞書)にも出ていまし
た。



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