2001年1月2日取材 2001年3月公開 

       
 
松島一の歌枕 雄島         富山観音より松島湾を望む     瑞巌寺中興の祖 雲居禅師     歌枕「まがき島」



目 次

   奥の細道と名所旧跡位置図
  松尾芭蕉「奥の細道」原文
  「奥の細道」現代語訳
  
作品解説
  (一) 松島の始まりの部分について思うこと
  (二)  雄島とは何か
  (三) 見仏上人とは誰か
  (四) 見仏上人と西行の不思議な関係
  (五) 頼賢とは誰か 頼賢碑とは何か
  (六) 雲居禅師の坐禅堂(把不住軒)について
  (七) 雄島概念図と碑文位置関係
  (八) 瑞巌寺について
      
(八の一) 天台宗延福寺時代
        (八の二) 北条時頼と法身の出会い 天台宗から臨済宗へ
         (八の三) 法身(真壁平四郎)とは誰か
        (八の四) 臨済宗 円福寺時代 隆盛から没落へ
        (八の五) 臨済宗 瑞巌寺時代 雲居禅師とはだれか
        (八の六) 瑞巌寺の造営に関して
  (九) 松島年代記
  (十) 松島写真集

     取材記録
                                       


奥の細道と名所旧跡位置図

黄色の線が、芭蕉と曾良の旅程図。塩釜から船で桟橋に上陸し、瑞巌寺、五大堂、雄島を見て、松島に一泊した。その後、旧道(金華山街道)を通って、高城(たかぎ)、小野、矢本を通って石巻まで向かった。



松尾芭蕉「奥の細道」より 松島

そもそも、ことふりにたれど、松嶋は扶桑(ふそう)第一の好風にして、

およそ洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥ぢず。

東南より海を入れて、江の中(うち)三里、 浙江(せっこう)の湖(うしお)をたゝふ。

嶋嶋の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指し、ふすものは波に葡蔔(はらば)ふ。

あるは二重(ふたえ)にかさなり三重(みえ)に畳(たた)みて、左にわかれ右につらなる。

負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫愛すがごとし。

松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹たはめて、屈曲おのづからためたるがごとし。

その気色(けしき)えん然として美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。

ちはやぶる神のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。

造化(ぞうけ)の天工、いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽さむ。

雄嶋(おしま)が磯は地つゞきて海に出たる嶋なり。

雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石(ざぜんせき)など有。

将(はた)松の木陰に 世をいとふ人も稀稀(まれまれ)見え侍りて、

落穂(おちぼ)松笠(まつかさ)など打(うち)けぶりたる草の庵、閑(しずか)に住(すみ)なし、

いかなる人とはしられずながら、先(まず)なつかしく立寄ほどに、月、海にうつりて昼のながめ又あらたむ。

江上(こうじょう)に帰りて宿を求(もとむ)れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、

あやしきまで妙(たえ)なる心地はせらるれ。

       
松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす      曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。

旧庵(きゅうあん)をわかるゝ時、素堂(そどう)松嶋の詩あり。

原安適(はらあんてき)松がうらしまの和哥(わか)を贈らる。

袋を解(とき)てこよひの友とす。

且(かつ)、杉風(さんぷう)濁子(じょくし)が発句(ほっく)あり。


瑞巌寺

十一日、瑞岩寺(ずいがんじ)に詣(もう)づ。

当寺三十二世の昔、真壁(まかべ)の平四郎(へいしろう)出家して、

入唐(にっとう)帰朝の後開山(かいざん)す。

その後に雲居禅師の徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍(いらか)改(あらたま)りて、

金壁荘厳(こんぺきしょうごん)光を輝(かがやかし)、

仏土成就(ぶつどじょうじゅ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。

かの見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやとしたはる。

(以上の文は、京都大学木越治先生のデータベースを基に、筆者が読みやすく改変している。)
                                                                    

現代語訳(安倍訳)

(松島の風景について)
本当に今までいろんな人が言ってきてはいることだけれども、やっぱり松島は日本でも一番の景色で、
有名な中国の洞庭湖や西湖に比べてもまったく遜色がないと思った。
(島の形について)
東南の方向より、海が入り込んでおり、入り江の中は、三里ほど、あの中国の浙江のように
潮が満ちてとても美しい。島の数は数えきれないほどあり、(その島の形と言ったら)、
高いものは、大空に向かってそびえ立っており、また平べったいものは、波の間にはらばいに
なっているように見える
 島々が二重・三重に重なって見えているものもあるかと思えば、その重なって見えているものでさえ、
左側の島に離れながらも右側の島に連なって見えたりして(本当に絶妙のバランスとしか言いようがない。)
島の大きさには大小があって、人を背負っているような形のものもあれば、また抱っこしているようなものもある。
まさに子供をあやしているような感じさえする。
(松の様子について)
松の緑は濃く、枝葉は潮風を受けてすっかり曲がってしまっているが、その曲がりようと言ったら
まるで松の木に意識があって自分から曲がっていったかのように、美しく屈曲している。
その松の木の景色の思わせぶりなことと言ったら、ちょうど美しい女性が化粧をした時の顔のようだ。
(再び松島の景色について)
この景色をお造りになったのは、神々が生きていた大昔に、山岳の神である大山祗(おおやまずみ)
の神が行った仕業だろうか。
そうした万物をお造りになった神々の業(わざ)であるこの景色の美しさは、
どんなに文章が上手な人でも言葉で表現できるだろうか、いやできはしまい。
雄島について)
雄島の磯はこちら側と陸続きになっているが、海に突き出た島である。
瑞巌寺中興の祖と言われる雲居禅師(1659年没)の別室である坐禅堂の跡坐禅石がある。
また松の木陰には、世の中の喧騒を逃れて道を求める人々の姿も所々に見ることが出来る。
落ち穂や松かさなどを燃やした煙の立ちのぼっている草の庵には、閑かに人が住んでいる様子であるが、
一体どんな人が住んでいるんだろうと興味もわいてくるので、心惹かれて立ち寄ったりしているうちに、
月が海に映っており、(その様子は)昼の眺めとはまた違っていて趣のあるものだった。
(松島の宿について)
松島湾に面した場所に戻ってから、宿を探してみたら、窓を海の方へ向けている二階建ての作りの宿だった。
今こうして寝床のある部屋から(あこがれていた)松島湾を眺めているのは、なんだかとっても
不思議な感じがして、神妙な気持ちになるのだった。
    松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす      曾良
古人は、「千鳥も借るや鶴の毛衣」と言っている。そうなのだ、この日本一の絶景松島においては、
ホトトギスよ、おまえも美しい鶴の身を借りて、松島の島々を飛びわたれ
私は、松島のすばらしさを目の当たりにして句を作ろうとしたがよい句が出ず、
眠ろうとしても眠ることはできなかった。
 江戸で以前に住んでいた芭蕉庵を出て来る時に、餞別として、弟子の素堂からはここ松島の詩を、
原安適からは、松が浦島(近くの宮城県七ヶ浜 古来より歌枕)の和歌を贈ってもらった。
 荷物袋の中から、これらの詩歌を取り出して、眠れないので今宵の友とした
それから、袋の中から、杉風と濁子の松島の発句も見つけた。うれしかった。
(瑞巌寺について)
瑞巌寺
十一日に瑞巌寺に参詣した。
このお寺は、今から三十二世の昔、真壁平四郎(=法身性西 ほっしんしょうさい)が
出家して、唐に渡り、日本に戻ってきてから開山した寺である。
 その後で、雲居禅師の中興により、七堂の建物も改修されて立派になり、
その様子は金壁荘厳、光輝くようであり、仏の世界をこの世に完成させたような大伽藍となった
あの霊験あらたかな見物上人のお寺はどこにあるのだろうか。ぜひ行ってみたいと思った。

作品解説
(一) 松島の始まりの部分について
文学者・作家の中には、「中国の洞庭湖や西湖と比べるとは芭蕉は行ったことがないからそんなことが言えるのであって、
中国一の景色とは松島は比べるべくもない」という論がある。例えば
(奥の細道 富士正晴 学研 65ページ)や(おくのほそ道行 森本哲朗 87ページ)である。
しかし、私は違うと思う。実物の洞庭湖や西湖ではなくて、イメージ上のそれらと比較した結果なのだと思う。
実物は確かに見てはいないけれども、洞庭湖や西湖を李白・杜甫がいかに愛し詩に詠んだかが芭蕉にとっては
大事なのであって、地理的な意味での、洞庭湖や西湖がどれほど規模が大きくすばらしいかはほとんど
重要ではないように思う。
 問題なのは、芭蕉という芸術家の心象に映った松島であり、イメージの洞庭湖や西湖なのだと思う。松島が芭蕉にとって、
今回の奥の細道を象徴するとても大事な場所な場所であるのは、旅立ちの章で他の地名は一切あげていないのに、
「松島の月まづ心にかかりて」と述べていることから察することができる。
なぜこれほどまでに松島が気にいっているのであろうか。
1つには、いろいろな人が言っているように、古来松島は歌枕として有名であり、その有名さは京都や江戸にも
知れ渡っていた。例えば誰でも知っている有名な作品としては次のようなものに松島がすでに掲載されている。
古代・中世の文書記録(松島町史資料編より引用)
  都のつと 宗久の著 1350年頃の紀行文
  今物語 鎌倉時代の説話集 1239年以後の成立 松島上人(見仏上人の記述が見られる)
  撰集抄 鎌倉時代の仏教説話集 1250年前後の成立 松島上人の記述あり
  沙石集 鎌倉時代後期の仏教説話集 1283年の成立 法身上人の記述あり
古代・中世の和歌の部(主要なものを抜粋)
  蜻蛉日記 974年 松島の風にしたがふ波なれば 寄るかたにこそたちまさりけれ
  枕草子 清少納言 1000年以後 島は、浮島、八十島、たはれ島、みづ島、松が浦島、まがきの島、(略)
  源氏物語 紫式部 1021年 松島のあまの濡れぎぬなれぬとて ぬぎかへつてふ名をたためやは
  新古今和歌集 1205年 こころある雄島の海人のたもとかな 月やどれとはぬれぬものから 宮内卿
  西行上人集 1190年 まつしまやおしまの磯も何ならす ただきさかたの秋の夜の月
二つ目は芭蕉の心象風景、心的イメージとしての松島は、洞庭湖や西湖よりもはるかに美しかった、
と考えられるからだ。
 実際に私も松島の観欄亭や瑞巌寺宝物館の資料を見て、感じたことであるが、芭蕉の時代後に出てはいるが、
松島を景勝地として紹介した図版の美しいこと、筆の絶妙なことと言ったら、それはまったく素晴らしいもので
あった。たぶん、芭蕉の同時代人たちもこうした絵のイメージを持っていたのだろう。
 私は実際の松島を子供のころから眺めて来ているので、それらが、どれだけ実際よりもはるかに素晴らしく美しく
描かれているかを知ることができる。
 私は実物の松島は日本一美しいなどとは思っていないが、版画や紀行文の世界の松島は「行ってみたいな」
「きれいだなあ。まるでおとぎの世界のようだ」と感じる。こうした世界の頼賢碑などは、巨大な粘板岩に
大きな梵語が彫り込んであって、オーラを発しているようだった。(それにしても現代の我々が、この素晴らしい
頼賢碑を実際にはもちろん、図版でも目にすることができないのは非常に残念だ。)
 こうした図版集あるいは紀行文を眺めていれば、風流を解する人なら誰しも素晴らしい心的実在としての
イメージを持つに違いない。
芭蕉以後に発刊された松島の図版・地誌(松島町史資料編より引用)どれも素晴らしい絵のできである。
  松島諸勝記 1716年 夢庵如幻(瑞巌寺6世) 松島の名勝を文章で紹介した最初のもの
  松島図誌 1820年 桜田欽斎
  奥州名所図会 大場雄渕
  塩松勝譜 全20巻 舟山万年
  奥羽観蹟聞老志 全18巻 1707年 佐久間洞巌
芭蕉以前の紀行集(たぶん、芭蕉はこうした文献をすべて見ていたと思われる。特に松島一代記の宗因は俳諧の先輩にあたる。また、
         大淀三千風(おおよどみちかぜ)は、俳諧でも名の知れた人であり、芭蕉より4つ年長。仙台では三千風の世話に
         なろうと考えていたようだったが、対面できなかった。 伊勢の出身で仙台俳壇・文芸のの大御所。
         西鶴は芭蕉のライバル。西鶴は俳諧師としても有名だった。           
  金銀島探検報告 1611年 スペイン大使セバスチャン・ビスカイノ
  日本国事跡考 寛永20年 林春斎(林羅山の三男) 松島が天野橋立、厳島神社とともに日本三景と最初に呼ばれた。
  松島一見記 1661年 西山宗因 西山宗因は江戸前期の連歌師・俳人で談林派の祖。弟子には井原西鶴がいる。
  松島眺望集 1682年 大淀三千風 この紀行文により松島が多くの人に知られるようになったと言われている。
  好色一代男 1682年 井原西鶴 浮世草紙作家・俳人 松島・塩釜の記述あり
  一目玉鉾 井原西鶴 西鶴の地誌。塩釜から石巻までの細かい記述あり。
  1689年 芭蕉、松島を歩く
三つ目には、エキゾティズム(異国情緒)が、このイメージを増幅している。芭蕉は、まだ見ぬ東北地方に対して
限りないエキゾティズム(異国情緒)を感じている。数々の歌枕、そして能因法師(のういんほうし)、歌人西行、義経などが
惹かれて旅した東北の地。歌枕でふくらんだイメージはこうした敬愛する人たちによって限りなく増幅されたに違いない。
芭蕉に「奥の細道」に旅立つきっかけを与えたと思われるもの
1 能因法師の歌の旅 1050年頃 陸奥の国へ
2 西行法師の歌の旅
1度目の陸奥への旅 1150年頃 26歳から31歳の間 陸奥へ修行のために出る
2度目の陸奥への旅 1189年 西行69歳 6年前(1180年)に平重衡の南都焼き討ちによって
        失われた東大寺再建のために、奥州の藤原秀衡に砂金の勧進を依頼するために伊勢を出発。
        この勧進を西行に依頼したのは重源上人。
        この辺りの事情は、「西行・山家集 井上靖著 現代語訳日本の古典9 学研」、
        「大仏建立物語 神戸淳吉著 小峰書店」に詳しい。
3 義経の平泉落ち
1回目 1174年 牛若丸16歳、金売り吉次に誘われて京都鞍馬寺を出る。奥州街道を通る。
2回目 1186年 北陸街道を通って、京都から北陸道(途中から奥州街道)を山伏姿で平泉へ。
「義経記 古典文学全集16 ポプラ社」と「東北の街道 渡辺信夫著」を参照

まとめ
以上のことから、冒頭の松島と洞庭湖や西湖を比較した文章に関して、「芭蕉は大げさに表現したのではなく、
イメージとしての松島とイメージとしての洞庭湖・西湖はまったく互角の美しさだったのだろう」という見解を
論拠を示して述べた。
 それから、この冒頭の部分であるが、似たような文がそれ以前にあって
1608年に虎哉和尚の撰文による瑞巌寺梵鐘「鐘之銘」の漢文
       「けだし松島は、天下第一の好風景にして、瑞巌は日本無双の大伽藍なり。」があり、そして
1682年に大淀三千風は松島眺望集」の中で上記の虎哉和尚の文を紹介しているし、
       また冒頭の箇所では、同じような表現を用いて松島を紹介している。
       「ソレ松島ハ、日本第一ノ佳境ナリ。四囲皆山ナリ 山間皆海ナリ。」
このような文章がすでにあったので、芭蕉は「そもそもことふりにたれど」(かなり言い古されていることではあるが)と前おきを
おいてから、あの名文を始めたのであろうと言われている。(奥の細道ハンドブック 久富哲雄 109ページ)
                                                                     

(二)  雄島とは何か
雄島とは松島水族館の裏側へ約200b行ったところにある、松島湾に浮かぶ島の1つ。
ただし陸地と非常に近いために小さな橋(渡月橋)がかけてある。
芭蕉の陸続きというのは、創作である。
東西は40b、南北に200bに満たない小さな島。
表記法は、「おしま・をしま・小島・雄島・御島」などがある。
雄島は、松島を代表する歌枕で、古来より非常に多くの和歌に詠み込まれている。
雄島の登場人物紹介
1104年 見仏上人、伯耆(鳥取県)より来て、雄島妙覚庵に住む。 (見仏上人)
1119年 鳥羽院、見仏上人に本尊と千本の松を賜う。      (千松島のおこり)
1199年 北条政子、見仏上人に舎利を寄進。頼朝の冥福を祈らせる。
1280年 一遍上人、松島を訪れる。
1285年 頼賢、雄島妙覚庵に住む。                
1300年 天龍寺開山夢窓疎石、松島を訪れる。雄島で頼賢に会う。
1307年 雄島に頼賢碑建つ。                  (頼賢碑)
1613年 正宗没。雲居禅師、松島に来る。入寺。第99世。 雲居、正宗の百箇日忌を営む。  (雲居禅師)
1637年 雄島に把不住軒(雲居の坐禅堂)建つ。雲居の願いにより五大堂は瑞巌寺に帰属することとなる。
1659年 雄島に松吟庵建つ。
                                                                 

(三) 見仏上人とは誰か
雄島の有名な話としては、まず見仏上人(けんぶつしょうにん)がいる。見仏上人は1104年に伯耆の国から来松し、
雄島の妙覚庵(みょうかくあん)に入った。以来、一歩も島を出ることなく、12年間ひたすら法華経を読誦した。
 鬼神を使いこなし、その法力を遠く京都まで示した超能力者であったという。その法力に感じた鳥羽天皇から、
姫小松一千本が下賜された。このことから雄島は千松島(ちまつしま)、御島(おしま)とも呼ばれるようになったという。
 なお、見仏上人は瑞巌寺(当時の延福寺)の住職ではないから、芭蕉も「あの有名な見仏上人のお寺はどこだろうか」と探している。
                                                                   

(四) 見仏上人と西行の関係
西行法師の物語を集めた「撰集抄」に次のような話がある。
西行が能登の国(石川県)で一人の僧と出会った。その僧は「月のうち20日は松島で暮らし、あとの10日は
ここで暮らす」と言った。西行が松島にたどり着いた時、能登で出会った僧は、すでに松島で暮らしていた。
 そして一緒に暮らすうち、やはり10日間は姿が見えなくなっていたという。その僧こそが見仏上人で日夜法華経を
読誦して超能力を身につけ、鬼神を使い、瞬時にして空間移動をしたという。
 西行法師が、松島に本当に来たのかどうかは、どうも定かではないようだ。どの数冊に当たってみたのだが、それらしきことは、
書いていない。伝説なのだろう。。
                                                                   

(五) 頼賢と頼賢碑
この見仏上人の徳を慕って、妙覚庵を継いだのが頼賢(らいけん)で、1285年に入ると以後22年間島から一歩も出ずに修行を
したので、見仏上人の再来と言われたという。また1300年には、世界遺産に登録された嵐山の天龍寺の開山夢窓疎石(むそうそせき)
頼賢と松島で出会っているのは興味深い。
 その頼賢の徳をしのぶために、1307年に頼賢碑が建てられている。碑文は鎌倉建長寺の唐僧一山一寧という有名な人の
撰文だという。確かに頼賢碑の拓本を見ると、碑の周囲には、よくラーメンどんぶりにある渦巻き模様(唐草模様?)が
しっかりと彫り込まれていて、和風でない、不思議な感じのする碑である。
                                                                  

(六) 雲居禅師の坐禅堂(把不住軒)
 芭蕉が他に指摘しているのは、瑞巌寺中興の雲居禅師(うんごぜんじ)の坐禅堂(把不住軒 はふじゅうけん)の跡と坐禅石である。
芭蕉が心惹かれて立ち寄ったりしている「草の庵」とは、松吟庵のことなのであるが、これがなかなか複雑なので
整理して書くと、次のようになる。建てられてから30年も経っているので相当風雪にさらされて草の庵に
なっていたのだろう。
  1104年 妙覚庵に見仏上人入る(初代の妙覚庵=見仏庵は島の北側にあった)
  1285年 頼賢、妙覚庵を継ぐ。(頼賢の継いだ妙覚庵は島の中央にあった)
  1637年 把不住軒(雲居の坐禅堂)これも島の北側にあったのだが、現在は島の南側に骨格が残っている。
  1659年 松吟庵が頼賢の妙覚庵跡(つまり島の中央)に建てられる。
  1689年 芭蕉、雄島に来る
つまり、この松吟庵を見ているうちに、松島湾に月がかかってきて、その美しさに感慨を催しているのである。
実際に見仏上人は「月まつしまの聖」と呼ばれているし、芭蕉も松島の海に浮かぶ月を見たくて「奥の細道」の
旅に出ているわけなので、ここはまさに念願かなったクライマックスのシーンであると言える。
                                                                  

(七) 雄島概念図と碑文位置関係

                                                                                

(八) 瑞巌寺について
 次に芭蕉は瑞巌寺のことを述べている。そこで「真壁平四郎(まかべへいしろう)」「雲居禅師」をキーワードにして
瑞巌寺のあらましを確認したい。
 瑞巌寺は開山から実に2度寺名を変えている。また、宗派も変えている。それぞれの変化にはおおきな事件が起きているので、
それにも注目してみたい
(八の一) 天台宗延福寺時代
828年 円仁(慈覚大師)開山。寺名を延福寺とする。天台宗として出発。
寺社は普通、権力者の庇護の基に置かれるのであるが、この時は、平泉の藤原氏の庇護を受けていたらしい。
しかし、1189年に源頼朝が奥州藤原氏を滅亡させたので、それ以後は鎌倉幕府の庇護を受けることになる。
この延福寺時代400年間の有名な出来事は、すべて雄島を中心に行われている。
見仏上人の超能力、鳥羽天皇の1千本の松、北条政子の仏舎利寄進などが重大事件である。
(八の二)北条時頼と法身の出会い 天台宗から臨済宗へ
1248年事件発生。 時の執権北条時頼が旅の行脚僧の姿で松島に来た。その日はちょうど延福寺の鎮守のお祭りで
神輿担ぎ等でにぎわっていたのだが、見物していた時頼は「前代未聞の見物哉!」と大声で叫んで、祭りを台無しに
してしまった。怒った荒法師たちは、刀やなぎなたで行脚僧を殺そうとするのだが、亀崎の良泉坊が「今日は祭りだから」と
止めにはいったすきに逃げたという。
 その日に行脚僧は瑞巌寺境内の法身窟に宿を求めた。中には先客があり無学文盲の禅僧法身性西(ほっしんしょうさい)
であった。その法身窟の中でいろいろと会話がなされていくうちに、時頼は法身の禅僧としてのすばらしさに打たれた。
 鎌倉に帰った時頼は、三浦小次郎義成にすぐさま1千の兵を与えて延福寺の約1千名の天台僧を追放した。この一部は
松島湾に浮かぶ福浦島に逃れたといい、また経文はすべて経ケ島で焼かれたという。以上は天台記の記述。
 その後、時頼は、岩窟の僧を捜し出して新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。この時から、瑞巌寺は円福寺という
臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。
 なお、この北条時頼という人は、熱心な臨済宗の支持者として有名で、宋の名僧・蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を
たてたりして禅宗を保護する一方で、強硬な日蓮のような人物はさっさと捕らえて伊豆に流刑にしている。
 日蓮は時頼に「立正安国論」を提出して法華経で国を治めるように進言したり、「禅は天魔がなり」といって他宗への
攻撃をはげしく行った。こうした流れの中でみると、延福寺の天台宗から臨済宗への改宗もよく理解できる。
なお、このあたりの鎌倉幕府の成立と終焉は以下のサイトに手際よくまとめてあるので、そちらをご覧下さい
http://www17.freeweb.ne.jp/area/bame/kaareki.htm

(八の三)法身(真壁平四郎)とは誰か
この法身の経歴は次のようである。
法身の俗名は、真壁平四郎といい常陸の国真壁郡猫島村の出身。人生の前半生は領主真壁時幹(ときもと)に使える従僕であった。
ある寒い日のこと、主人のお供をしていた平四郎は、ご主人様が帰る時に、履き物を差し出した。履き物が冷たくならないように暖めて
いたのだった。しかし、これを訝しく思った主人時幹は、「さては、さむいからといって、私の履き物を尻に敷いていたな。」と激怒し、脱
捨てた履き物で平四郎の額を思いきり殴りつけた。平四郎は昏倒して倒れ、しばらくして起きあがると、割れた履き物が転がっている以外に、
辺りには誰もいなかった。その履き物を懐に入れて、平四郎は真壁を後にした。
 俗世間がつくづくいやになった。鎌倉・高野山・比叡山に登って仏教の道に入ろうとしたのだが、文盲だったために、天台宗や真言宗の
密教は学問やきまりが難しくて理解できなかったがっかりしていた平四郎に朗報が届いた。禅は難しい学問をしなくても悟りが開ける、
そう聞いた平四郎は、宋の国にある径山寺(きんざんじ)の仏鑑禅師のもとで修行をすること9年、悟りをひらいたのちに帰国した。
帰国していて、しばらくは姿を隠していたのだが、この径山寺の仏鑑禅師門下には中国や日本からすぐれた僧が学びにきており、
北条時宗の帰依を受けて鎌倉に円覚寺を開いた中国僧の無学祖元、来日にして建長寺二世となった。兀庵普寧(ごったんふねい)は
直接の門下であり、建長寺の開山、蘭渓道隆は径山寺で青年時代を過ごしている。そうした名僧などには、法身の所在は確認されて
おり、時頼に報告されていたらしいのである。
(八の四)臨済宗 円福寺時代 隆盛から没落へ
従って、臨済宗としてのお寺円福寺は、1259年の法身を開山とするのである。その次に住職となったは、鎌倉建長寺の
蘭渓道隆であった。その後、円福寺は、順調に発展し、4世から7世のころまでがピークであったという。(「瑞巌寺の歴史」
によれば、その様子は一遍上人絵詞伝や歌僧宗久の「都のつと」等で知ることができるとのことであるが、残念ながら角川と
平凡社の二系統の一遍上人絵詞伝にあたってみたのだが、松島の情景を描いたページを発見することができなかった。)
 しかし、南北朝の動乱が60年も続いたため、人々も円福寺も次第に勢力を弱めていった。伊達政宗の師、虎哉禅師(こさい)が
訪れた時には、幽霊屋敷同然のようになっていたという記述が残っている。
(八の五)臨済宗 瑞巌寺時代 雲居禅師とはだれか
 伊達家はもともと禅宗の信仰が厚く、身内から僧侶となるものもあったほどである。仙台に青葉城を構えてから、
師の虎哉(こさい)和尚のすすめで正宗は、円福寺の復興造営に力を注ぐ。こうして1608年(竣工の前年)に
名前を瑞巌寺としたのである。
 瑞巌寺初代の住職には、陽岩宗純(ようがんそうじゅん)が就任したが、建物の完成を見ずに1608年に亡くなって
いる。その後、越前の国から海晏道陸(かいあんどうりく)が就任した。しかしこの後、住職になるものの寿命が短かったりして、

5年、あるいは10年と住職不在の時代があった

 1636年に正宗は亡くなるのであるが、死を察した正宗はなんとかして瑞巌寺の住職不在を解決したいと願っていた。
そこで、瑞巌寺で修行中の25歳の若者、東初(とうしょ)に目を付けた。この若き修行僧は大変優秀であったが、年齢が若いことを理由に
断った。その替わりに東初は、後水尾帝(ごみずのおてい)の何度にも渡る頼みを断り続けている名僧、雲居を推薦した。
 正宗は、使者を2度も派遣したが、雲居に断られた。ますます気に入った正宗は3度目の使者として東初を派遣した。
その間に正宗は70歳で亡くなってしまった。
 伊達家2代目の忠宗は正宗の要望をかなえるべく、「松島に来てくれないのならば、瑞巌寺を他宗としてしまうぞ」という
不退転の決意を持って懇願して、ようやく雲居は承諾することになった。
 瑞巌寺に入った雲居は、それまでゆるんでいた寺の綱紀粛正に努め、また自ら率先して雲水たちと寝起きをともにして、
禅寺の謹厳な雰囲気を醸し出したという。また全国から名声を聞きつけて集まった雲水で、瑞巌寺は収容しきれなくなる程で
門の下や洞窟で寝起きするものさえ出るほどだったという。また瑞巌寺だけでなく忠宗や正宗の正妻である陽徳院田村氏の
庇護を受けたこともあり、伊達領だけでも17寺の開創中興を行った。全国では173ヶ寺の開創・中興を行っている。
こうした活躍に対して後光明天皇から「慈光不昧禅師(じこうふまいぜんじ)号」が贈られた。また人材育成もすぐれており、
弟子達の中でも嗣法の弟子が15人。そのうち5人が賜紫(しし)、つまり天皇から紫の衣を頂くという僧侶の最高栄誉者となっている。
 また雲居禅師は様々な逸話が沢山のこっていることから、皆に愛されたことがわかる。雄島では幽霊に引導を渡した、干ばつの
雨乞いのために北条政子から頂いた仏舎利を海中に投じた話、栄養不足からの一時的な失明を飲酒して直した話等数に限りが
ないほどである。
 また、庶民に禅宗の教えをわかりやすく説いた歌念仏、往生要歌(おうじょうようか)を広めたことや(これはあとで宗教上の
問題に発展するのであるが)、弟子に対する指導は懇切丁寧に行ったこと。書の腕は、後に500年間出(つまり1千年間にただ一人)
で日本臨済禅中興の祖と言われている白隠禅師が若いころ、雲居の書を見て、修行をおろそかにしていたことを改めさせた程の腕前
だったとい言われている。
 このようであるから、当時江戸にいた芭蕉にもその名前が聞こえないはずはなかったと思われる。1689年に松島に来た芭蕉で
あるから、1609年に竣工した瑞巌寺はさぞ荘厳で華麗だったにちがいない。その間はちょうど80年である。

(八の六)瑞巌寺の造営に関して
材料は、紀州熊野山中から海上16艘のいかだを組んで運んだ。
大工は京都から梅村彦左衛門家次一家を招へいした。また梅村は紀州から当時、日本一の大匠と言われた刑部鶴左衛門
(おさかべつるざえもん)を招いた。1604年に正宗自らなわばりを張って工事を開始したという。また「棟や床に
あがるときは草鞋をはきかえよ」とか、「釘・かすがいでも、まちがっておとしたら二度と使用してはいけない」等と
相当気合いを入れて造営に取り組んだらしい。
 何と言っても、200を越える大名中、第3位の大大名である。絵師は仙台藩お抱えの絵師、佐久間修理(しゅり)。
他に有名な文王の間、上段、上々段の部屋の制作は、長谷川等胤(とういん)である。


(九) 松島年代記「瑞巌寺の歴史」より芭蕉に関連する部分のみ抜粋)
782〜805年 坂上田村麻呂、富山に観音堂を開く。
807年  坂上田村麻呂、五大堂島に毘沙門堂を建てる。             (五大堂のおこり)
828年  慈覚大師、延福寺(瑞巌寺のはじまり)と五大堂を開創する。
1104年 見仏上人、伯耆(鳥取県)より来て、雄島妙覚庵に住む。       (見仏上人)
1119年 鳥羽院、見仏上人に本尊と千本の松を賜う。              (千松島のおこり)
1189年 源頼朝から義経調伏の御教書下る。奥州藤原氏滅亡。
1199年 北条政子、見仏上人に舎利を寄進。頼朝の冥福を祈らせる。
1248年 北条時頼、僧体して松島に来る。法身と邂逅する。          (法身窟)
1249年 時頼、延福寺を滅ぼす。名前を円福寺とし将軍家御祈願寺とする。
1280年 一遍上人、松島を訪れる。
1285年 頼賢、雄島妙覚庵に住む。                
1300年 天龍寺開山夢窓疎石、松島を訪れる。雄島で頼賢に会う。
1307年 雄島に頼賢碑建つ。                        (頼賢碑)
1333年 鎌倉幕府滅ぶ。                 
1567年 伊達政宗、米沢に生まれる。
1578年 円福寺、建長寺派から妙心寺派となる。
1593年 伊達正宗、朝鮮出兵から臥龍梅を持ち帰る。
1600年 伊達政宗、仙台を治府と定め、青葉城の普請にかかる。       
1605年 伊達政宗、五大堂を造営。円福寺造営。
1609年 瑞巌寺上棟する。正宗、紅白梅・松を手植えする。         (瑞巌寺の臥龍梅)
1611年 スペイン大使ビスカイノ松島訪問。
1615年 大阪夏の陣。豊臣氏滅ぶ。
1613年 支倉常長、イスパニアに向けて牡鹿半島の月の浦を出航。      (瑞巌寺のクリスタルガラス)
1613年 正宗没。雲居禅師、松島に来る。入寺。第99世。 雲居、正宗の百箇日忌を営む。  (雲居禅師)
1637年 雄島に把不住軒建つ。雲居の願いにより五大堂は瑞巌寺に帰属することとなる。
1644年 芭蕉、伊賀の国上野(三重県上野市)で生まれる。
1653年 伊達政宗の妻、田村氏愛姫(めごひめ)没。松島に葬る。五郎八姫(いろはひめ)、富山観音堂修復。
1659年 雄島に松吟庵建つ。
1661年 五郎八姫没。松島に葬る。
1682年 大淀三千風、「松島眺望集」刊行。
1689年 5月6日 芭蕉、松島を訪れる。
1694年 「奥の細道」刊行される。芭蕉、大阪にて没。51歳。
1731年 伊達吉村の命で、五大堂500年ぶりに開帳される。
1732年 雄島に見仏堂建てる。
1747年 雄島に芭蕉句碑「朝よさを」建つ。
1772年 仙台藩官撰、「封内風土記」完成する。
1786年 菅江真澄、松島訪問。
1789年 雄島北端に芭蕉奥の細道碑建つ。
1808年 雄島に曾良句碑建つ。
1823年 舟山万年、「塩松勝譜」で松島四大観を設定。
1851年 鐘楼下に奥の細道碑建つ。
1868年 明治元年 廃仏毀釈運動始まる。瑞巌寺の苦難が始まる。
1876年 明治天皇行幸。瑞巌寺上々段の間に宿泊。1000円が下賜され、修理が開始される。
1884年 9月15日 東北開発の最大プロジェクト、野蒜築港、台風のためにとん挫する。
1893年 正岡子規、来松。
1895年 乃木希典、南天棒に参ず。
1908年 大正天皇、来山。北上川改修で川底から出た檜で造った埋木書院、仙台に完成。
1912年 明治天皇崩御。乃木希典夫妻殉死。南天棒、「バンザイバンザイ」の弔電を乃木宛に出す。
1919年 雄島薬師堂、焼失。
1927年 宮城電鉄、松島海岸駅まで開通。水族館開設。
1931年 齋藤茂吉、来松。
1943年 埋木書院、瑞巌寺に移築。
1945年 仙台空襲により、瑞鳳殿焼失。松島空襲。第2次世界大戦、終戦。
1947年 昭和天皇行幸、埋木書院にて休憩。
1955年 第1回芭蕉祭。
1975年 高村光雲作観音像、宝物館へ。(光雲は光太郎の父、東京芸大教授)
1983年 雄島松吟庵再度、焼失。
1987年 NHK大河ドラマ「独眼竜正宗」大ヒットし、松島の観光客も増える。(ピーク時、年間600万人)
1989年 俳聖松尾芭蕉 奥の細道三百年 瑞巌寺年間120万人の入山 (独眼竜正宗の時が110万人)
                                                                                  

(十)松島写真集photo by 安倍)

 

matsu001 富山観音の掲示板
芭蕉は富山観音には行っていない。しかし曾良旅日記には「富山が見えた」とあるので、当時から有名だったのだろう。
 「瑞巌寺の歴史」(瑞巌寺出版)によれば、782〜805年にかけて坂上田村麻呂が富山に観音堂を開く(封内風土記)、とあるので、有名な五大堂(807年)や瑞巌寺(828年)よりも歴史がさらに数年から数十年古い。松島の寺社関連の歴史では最古だと思われる。

matsu002 富山観音の石段
駐車場から境内まで続くきれいな秋保石の階段。
全然人が近づかない閑かなところなので、みなさんも是非のぼってみてはどうでしょうか。

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境内にある老杉。松島町指定天然記念物。樹齢数百年で金華山沖を航行する船の目印になっていた、と解説してある。

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富山観音から眺める松島湾。湾内が一望できる。
牡鹿半島から蔵王連峰まで見渡せたという。
明示9年には、明治天皇も騎馬にて登山している。
安藤広重には、「六十余州名所図会 陸奥
松島風景富山眺望之略図」というのもある。

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観音堂の解説。それによれば坂上田村麻呂建立、涌谷の観音様をいれて奥州三観音の1つとのこと。

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富山観音の観音様。外にある鉄製のもの。

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山門にある観音像木造。相当いたみが激しい。修復が望まれる。

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山門にある仁王様。阿形と吽形ともあるがどちらも相当いたみが激しく、こちらも早急の修理が望まれる。

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松島海岸の裏側にある「湯の原」。近在の人の湯治場になっている。芭蕉とは直接に関係がない。

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「西行戻しの松」にある碑。
「あきらかに、、とびつく、、、かな」と読めるが、誰のものか不明。

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西行(1118〜1190)が松島を訪れようとこの地の松の傍らで休み、松島明神である老人と出会った伝説を伝えている。この一帯を「西行戻しの松」という。西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くから語り継がれているとのこと。

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西行戻しの松にある石碑群。

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西行戻しの松から眺める松島湾。

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「西行戻しの松」の全景。あまりこちらには観光客は来ない。

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白衣観音。西行戻しの松の向かいにある。建立の理由は不明。付近にかかれたものはなかった。非常に新しい

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松島の観光案内板。見どころ紹介もいいのだが、肝心の歴史的な解説がまったくない。改善を期待したい。

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雄島のいわれを解説したもの。雄島は松島湾に浮かぶ大小の島々の代表格であり、松島を代表する歌枕である。
立ち返り またも来てみん松島や雄島のとまや 浪にあらすな  藤原俊成 新古今和歌集

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雄島は全島霊場であると解説してある通り、いたるところにこのような石窟があります。

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雄島。石窟の遠景

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松島の海岸から雄島に渡る渡月橋。芭蕉は陸続きと書いているが、昔から島だったそうです。手前が本土、向こうが雄島です。

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雄島に渡る橋から見た松島湾(塩釜方面)。砂浜になっているが、以前は泥だった。それを15年ほどまえに砂を入れて人工海浜にした。「浪打浜(なみうちはま)」と呼ぶ。この工事には私も潜水士として参加した。不思議なことに松島や塩釜には海水浴に適した海浜がない。すべて泥のためと昔から漁港や船だまりとして利用されてきたからか。この辺でもっとも近い海水浴場は、「野蒜海岸」である。

matsu022  雄島にある妙覚庵の跡。

matsu023  芭蕉碑と曾良の句碑。
芭蕉 朝よさを誰まつしまぞ片心
曾良 松島や鶴に身をかれほととぎす

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大島寥太(おおしまりょうた)の句碑 1768年建立
朝ぎりや跡より恋の千松しま
大島寥太(1718〜1787年)は信州の人。芭蕉を慕って芭蕉庵を再興した。雪門と称し門弟は三千という。

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雲居の坐禅堂「把不住軒」の建物の中にある雲居禅師の肖像画

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雲居の坐禅堂「把不住軒」の建物

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頼賢の碑の解説。拡大すると読めます

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これは頼賢の碑を守る六角堂。覆い堂の周囲にはさらに鉄柵があって、まったく近寄って隙間から見ることさえできません。保存はもちろん大事ですが、それと同じように公開も大事ではないでしょうか。せめて、近くに写真か、レプリカがあるといいのですが。ぜひ見たかったです。

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雄島に建つ奥の細道碑。

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雄島の中にある雄島の解説。
拡大するとよく見えますので、ご覧下さい。

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陸側から見る雄島。ほんとに小さいですね。

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雄島に通じる道。岩の間を通っていきます。
上の方に岩窟があるので、昔はもう少し高い位置に道があったのを最近すこし掘り下げたのでしょうか。

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雄島を出て松島湾の船着き場。巨大な浮き桟橋が見えます。潮の干満差のために、船への乗降が大変なので、こうした浮き桟橋を利用すると乗り降りが楽なのです。ここには何百隻と大小の観光船があります。

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海上レストランになっている遊覧船。昔は現役だったのでしょう。

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観瀾亭。正宗が秀吉から譲り受けた建物。
それを二代忠宗の時に江戸から松島に移築した、とある。

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観瀾亭内のふすま絵。

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観瀾亭内の松島博物館にある。伊達領内絵図。
赤い△の隣の白い○に「野蒜村」とかすかに読める。
赤い四角の中には「高城村」の「高」の字が読める。
赤い道は東浜(あずま)街道か。
途中、石巻に行く金華山街道が細く印してある。芭蕉は、そこを通っていったのだろう。街道についてはいつか詳しく調べたいと思っている。

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松島湾と塩釜を結ぶ観光汽船。船名を見よ。
そういえば、昨年の夏に別の「芭蕉丸」プロペラを兄が潜って修理していたなあ。一緒についていった。

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観光桟橋から北側を望む。福浦島に渡る赤い橋が見える。

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日本三景の碑。
日本三景を制定したのは誰だったかしら。どっかで読んだが忘れてしまった。それにしても日本三景と言われる天の橋立、厳島神社、松島。すべて穏やかな海浜風景なのは、どうしてかを論じた
(山本さとし「奥の細道を歩く」柏書房213ページ)はイギリス国民と比較jしていて大変面白い。

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五大堂の始まりを説いた縁起。
807年 坂上田村麻呂の毘沙門堂に始まるという。
1731年には伊達吉村の命で500年ぶりに開帳されたという。

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しらき造りのように見えるが実際には朱色に彩色されていたとのこと。

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瑞巌寺境内にある岩窟の1つ。かの有名な法身窟。
北条時頼が無学文盲の僧法身とであったとされる洞窟。

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瑞巌寺の庫裡にある仏像。
東京芸大教授高村光雲作とあるから、詩人・彫刻家の高村光太郎のお父さん。まさかここで会うとは思わなかった。光太郎は岩手県花巻市に宮沢賢治を頼って疎開し、郊外の山屋に八年間独居生活をするのである。私も何度かその高村山荘に行き、経済的に光太郎を助けた人が書いた伝記も読んだが、光太郎もお父さんが立派だっただけに随分と苦労したようだ。そう言えば、賢治もそうだった。父と宗教上の対立をして結局、乗り越えられなかった。芭蕉はどうだったんでしょうね。芸術上の父(師)である北村季吟や西山宗因の談林派を越えたのか。

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瑞巌寺の山門脇にある芭蕉碑。

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さらにその隣にある「芭蕉翁奥の細道松島の文」
「抑ことふりにたれど」から「「いずれの人か筆をふるひ詞を尽くさむ」まで彫ってある。

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芭蕉翁に関係する碑文遠景。近くには他にも沢山の碑文があってよくわからないものが多い。ガイドブックを持っていくか、誰かに案内してもらわないと判りづらい。私は瑞巌寺のチケット売り場で聞いてわかった。

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松島から塩釜に向かう国道45号線から少し入ったところにある松島四大観の1つ双観山。

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芭蕉も見たというまがき島。漢字では「籬島」とか「曲木島」と書く。その昔、塩釜神社を造る時に関係のある籬島名神を祀るちいさな祠があったのが、島の名の由来とか。塩釜湾内には多数の島があったが、市街地の造成、港の改修によって、唯一この島だけが残ったという。
古来歌枕として有名で古今和歌集などに読まれている。
昭和38年に漁港建設のためにこの島一帯を含む地域が特別名勝地域から除外されたが、すぐれた歴史的な背景を持つこの島を残そうと昭和41年に塩竃市の名勝として指定されたという。周りの漁港にとっては操船上、迷惑この上ないのだろうが、塩竃市や住民の理解があって今はとても大事にされているようである。立派な橋も架けてあった。
こういう英断は大いに歓迎したい。22世紀の孫子の代まで残していきたいものだ。周囲155bだから普通の住宅2軒の大きさ。バックホーで掘り返せば、たぶん1時間もしないでこわすことができるはず、、、。

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曲木島神社由来。拡大してご覧下さい。
しかし、こんなちっぽけな島が、中世、和歌の精華を集めた作品集に貴族たちの心をときめかせるキーワード(歌枕)として掲載されていたのだから、なんとも不思議。ちっぽけな籬島はとっても偉いです。

matsu051
老木の根本を大事に保存してある。その老木の由来は上記matsu050を拡大して読んでください。

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奥の細道(籬島)のしるし。走って行ったらあやうく塩釜港に落ちるところだった(笑)。だけど柵なんて無粋なものは要りませんからね。

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籬島から右手に見る塩釜港。東北ドック鉄工(造船所)の起重機か。
むかしはドック鉄工でもよく潜ったものです。奥の方は行き止まり。

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籬島から左手をみる。塩釜漁港。
個人的なことで恐縮ですが、今から20年前、私がまだ大学生だったころ、兄が潜水工事会社を興したころに、私が最初に潜水の仕事を覚えた場所です。ん〜、20年ぶりに見る光景。山暮らしの今となっては、感慨しきり。

しほがまの 青き海見て 深呼吸する 芭蕉を捜す旅
我を捜す旅    不二男

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籬島から右手を見る。手前が造船関係工場。奥の対岸が観光汽船の船着き場。ちょうど観光汽船が松島に向けて出ていくところ。

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曲木神社の鳥居。

matsu057 籬島全景。小さいですね。
これが古代、中世、近世通じて日本中の風流人の心を捉えた島なんですね。それにしても小さい。
右手の赤い橋が入り口。塩釜警察署が管理しているようです。
同行した父の話しでは、昨年、島の一部が崩落したので補修しにきたそうです。


                                                                             

取材記
平成13年1月2日、早朝より松島を探訪してきました。
取材のポイントは、芭蕉が訪れた場所としては、船着場、瑞巌寺、雄島、五大堂です。
その他に関連取材としては、富山観音(とみやまかんのん)、西行戻しの松でした。時間があれば塩釜神社に行こうと思ったのですが、
あいにく、元朝参りの渋滞で塩釜市内に入ることはできませんでした。しかし、塩釜港内の「まがき島」を撮影することができたのは
個人的には、とてもうれしかったです。本シリーズ中初めて一句を詠みました。(テレ笑)

海はいいですね。改めて感動しました。今は山暮らし(盛岡に来て14年)なので、海を見るとホッとします。盛岡に住んでしばらくして実家に帰って一人で海を見たときは、思わず涙が出そうになりました。これでも昔は気合いの入った波乗り野郎だったので。芭蕉も、松島だけでなく、平泉の義経堂(ぎけいどう)などでまさに「涙も落つるばかりなり」と、感動していますが、わかる気がします。立場も時代も違いますが、(一緒にするなと芭蕉に言われそうですが)自然に向き合う点では一緒ですね。

取材者は、いつもことながら、妻と子供たち(しかも今回は実家の子供も参加)の他に私の父(65歳)にも参加してもらいました。
ただ今回は、さすがに寒いので富山観音は全員でお参りをしたあと、妻と子供達4人は松島水族館において行くことになりました。
それで、実際の松島探訪は父と私の二人で行いました。父とは日頃ゆっくりと話す機会もなく、過ごしてきましたが、芭蕉が取り持つ縁でしばらくぶりに親子で旅をすることができました。
 また、偶然に松島水族館の入り口で松島町に住むい母方の実家の親戚にばったりと会いました。そこで、事情を話ししたら役場に勤務するその親戚に貴重な「松島町史 資料編」を寄贈してもうらことができました。ありがとうございました。この場をお借りして御礼を申し上げたいと思います。

今回も取材は大変でした。下調べとかえってからの資料読みが本当は楽しいはずが、早く公開したい気持ちから苦行に変わってしまいました。(笑) 実は、2000年3月に調査した平泉の写真データをマシントラブルですべてなくしてしまいました。こつこつホームページ化しようとして解説をつけていたのですが、残念です。その後、しばらくはこのホームページには見たくもない気持ちでした。

2000年の夏に4級小型船舶操縦士の免許を取りました。かなりお金と時間もかかりましたが、いよいよ夢がかないそうです。今度、塩釜から松島までジェットスキーでゆっくり芭蕉のように海上ツーリングしたいと思っています。それだけでなく、石巻からずっと貞山運河(正宗の雅号の貞山にちなむ)と松島湾をとって、塩釜湾を抜けて仙台湾に入って福島まで運河を旅行したいと思っています。
 カヌーでもいいんですね。だれか一緒にやりたい人はいませんか。興味のある方はメール下さい。

今年2001年の目標は、バイクの免許を取ることです。大型スクーターに乗って自由に気の向くまま取材したいものです。車はどうしても小回りがきかず、こうした取材に向きませんね。平泉の和泉が城を取材した時に、あやうく田んぼに車を落としそうになりました。雪ですべってズッコケたのです。愛車ステップワゴンをお釈迦にするところでした。(笑) それにいい場所があってもいちいち路上駐車できないし。

このページに関するご意見、ご感想は以下のメールにお願いします。
 安倍冨士男 iroha@ictnet.ne.jp

では、失礼します。今度は平泉(2度目)か塩釜をやる予定です。お楽しみに。
2001年2月28日