石巻 


全体の行程
5月10日 松島を出発してから、私の生まれ故郷をかすめて石巻で一泊している。
5月11日 石巻から登米まで行って検断(宿場の役人)に頼み込んで何とか泊めてもらう。
5月12日 登米を出発して、上沼付近から雨が降り出し合羽も通るほどの豪雨の中をなんとか一関までたどりついて宿に泊まる。
5月13日には、日帰りで平泉まで足を運んで見学を行っている。
以下に行程の図を掲載する。黄色い■の場所が宿泊地。
なお、筆者の育った場所を「安倍」と標した。



奥の細道に関連する古の歌枕
金華山 
すめろぎの御代さかえむと東なるみちのく山に金花咲く   大友家持(万葉集)
袖の渡 
みちのくの袖のわたしのなみだ川こころのうちに流れてぞすむ   相模(新後拾遺集)
尾ぶち御牧
陸奥のをぶちの駒も野がふには荒れこそまされなつくものかは   読人不知(後撰集)
真野萱原
みちのくのまのの萱原遠ければおもかげにしてみゆといゆものを  笠女郎(かさのいらつめ) (新千載集)


以下に石巻付近の場所の概念図と簡単な解説をを掲載する。
芭蕉が宿泊したのは、新田町の四兵衛の家は、現在の石巻グランドホテルのある場所。なお、四兵衛は沖仲士の親分で鈴木氏で代々四兵衛を名乗る。

日和山は、宿から徒歩20分程度の高さ56メートルの小高い丘。ここはもともと鎌倉・室町時代の葛西氏が城を構えたところで石巻城址である。
現在は、日和山公園となっていて、山上には、鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)がある。

石巻は、江戸時代は北上川沿いの岩手・宮城両県の(南部藩・伊達藩の)米の積出港だった。北上川まではひらた舟で、石巻から江戸までは千石船で米を運んだ。つい1970年代までは、漁業基地として有名で水産業が盛んだった。しかし200海里時代の到来と共に水産業は次第に衰退し、現在街の中は空洞化が進んでいる。

金華山 
すめろぎの御代さかえむと東なるみちのく山に金花咲く   大友家持(万葉集)
これについては、すでに日和山からは実際には見えないことを述べたが、実際に見えたかどうかが
問題なのではないのであろう。また東大寺大仏殿に使ったとされる金の産地として金華山が述べられているが、実際には宮城県涌谷町の金山から取れたものである。なお、金華山沖といえば、暖流と寒流の交差する場所で世界三大漁場の1つに数えら得ている。
当時、金華山付近の海底には金のナマコが住んでいるという伝承があり、芭蕉が江戸を発った元禄二年春に、井原西鶴が「一目玉鉾(ひとめたまぼこ)」を書き、その中で、金華山について「此島山の磯辺に砂金有金子とてなまこの名物出ける」と記している。

袖の渡り
袖の渡りは、現在の住吉公園付近にあった北上川の渡しがあった場所。
源義経(牛若丸)が京の都より下って平泉へ赴く途中に、ここの渡し舟に乗った。そして舟賃の代わりに片方の小袖を切って船頭に与えたという伝説が残っている。しかし袖の渡りの和歌ができたのは、義経の平泉下向以前であるから時代的には合わないことになる。
なお、この住吉公園の前の北上川の川中には、潮の干満によって渦巻きができる岩があり、これを「巻石(まきいし)」と呼び、地名「石巻」の発祥と言われている。

尾ぶちの牧
現在の牧山(まぎやま)市民の森公園付近。都への官馬として送る馬を飼っていた尾ぶちの牧場のこと。

真野の萱原(かやはら)
現在の石巻市真野字萱原付近。長谷寺があり、そこに「真野萱原伝説地」の標柱がある。萱は北上川下流に茂る草の一種で、石巻地方の原風景を残すものとして知られ環境庁の「日本の風景100選」に選ばれている。




「奥の細道原文(ふりがなは安倍)
十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞傳(ききつたえ)て、人跡(じんせき)稀に雉兎(ちと)蒭□(すうぜい)の往(ゆき)かふ道、そこともわかず、終(つい)に路(みち)ふみたがえて石の巻といふ湊(みなと)に出(いず)。こがね花咲(さく)とよみて奉たる金花山(きんかざん)海上に見わたし、数百の廻船(かいせん)入江につどひ、人家、地をあらそひて、竃(かまど)の煙立(たち)つゞけたり。思ひがけず斯(かか)る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家(こいえ)に一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよひ行(ゆく)。袖のわたり尾ぶちの牧まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)と云所に一宿して、平泉に到る。其間、廿余里ほどゝおぼゆ。


現代語訳(安倍)
12日。金色堂で有名な平泉に行きたいと考えて、姉歯の松・緒絶の橋を有名なところを聞いていたので、そちらにも行ってみたいと思いながら人の通った跡もよくわからないような猟師や木こりしかあるかない道を、どこへ通じるとも知らないまま、たどっていったら、道に迷ってついに石巻というところに出てしまった。
 大伴家持が東北から金が出たことを喜んで万葉集に「すめろぎの御代栄えんとあずまなるみちのく山に黄金花咲く」と詠んで天皇に奉った金華山を遙か遠く海上に見えた。数百の回船が石巻湾にあり、人家が沢山見えた。また家々の竈からは煙が立ち上っているのが見えた。
 しかしそれにしてもけもの道を通ってきたのに、こんなに繁栄している場所に思いもかけず来てしまったものだなあ、と感慨を覚えたものだ。そして一夜の宿を借りようと頼んでみたが、泊めてくれるところはなかった。
 ようやく貧しい小さな家に一泊して、次の日にまた知らない道を迷いながら進んだ。
 袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などを遠くに眺めながら、遙かに続く堤の上の道を歩いた。心細くなるほど寂しい長沼という場所を通り過ぎて、登米という場所で一泊して、平泉に至る。その間は約20里ほどだった。

解説の解説
9日松島、10日石巻 11日登米、12日一関に宿泊している。そしてこの記録は、12日に一関に到着したところで、記録されたことになっている。
 いろいろな解説書を読むと、事実はどうやら次のようになるらしい。
松島から平泉へ直行しようとしていたが、歌枕で有名な姉歯の松や緒絶の松を見ようと人が殆ど通らないような道を歩いていたら、石巻というとてもこんな田舎にあるとは思えないほどの港町にばったり出てしまって とても驚いたことになっている。
 しかし、曾良旅日記によれば松島から石巻まで直行しており、迷って出てしまったのではないようだ。どうやら仙台か松島あたりで名所の多い石巻行きを決めたようだ。
 どうして石巻に来ることになったか?諸説があるがいろいろ紹介しておく。
1 俳聖といえども、金の出る土地に興味があったか?  石巻観光協会専務理事談話(奥の細道を行く 講談社 116ページ)
2 いにしえの歌枕を訪ねようとした
3 石巻は当時繁栄を極めた町で、伊達藩の経済状態を示唆しており、実際は予定の行動であった。(奥の細道 山と渓谷社 98ページ)

いずれにしてもどの本でも共通している見解は、石巻までのルートが予定の行動であったが、文学的構成法として「さびしい道を道に迷いながら、お湯も与えられずに苦労して進んでいったら、繁栄している町に出た」との表現を選んだようだ。
 「新潮社奥の細道を歩く」によれば、中国の「桃花源記(とうかげんき)」に似たような構成があり、川を遡り、洞穴をぬけたら、桃の花が咲き犬や鶏の声のする平和で豊かな仙境に出たとなっており、この故知にならって、実用の旅ではない、文人の旅とはこういう旅であることを強調し、風雅の旅の理想図を構成してみせた、と述べている。(同書58ページ参照)
 「平凡社 奥の細道行 森本哲郎」では、芭蕉深く傾倒し、53年後に旅に出た与謝蕪村と比較しながら、旅の本質について次のように書き記している。「だが、そうであればこそ、旅はこの上ない実りを旅人に与えたのである。安易な旅、快適な旅行は楽しみ以外の何も残してくれない。まことに、最悪の旅こぞ最良の旅だと私は思う。」(同書 95ページ)
 当時は、身元の知れぬ旅人に宿を貸すことは触(ふれ)によって禁じられていたらしい。
根古村(現在の鳴瀬町小野根古地区)の武士今野源太左衛門は、わざわざ一町ほどの道のりを戻って知り合いの家でお湯を飲ませてあげているし、石巻新田町の四兵衛を紹介して宿が取れるように計らってあげている。また石巻の四兵衛の宿を発つときも、気仙地方へ行く人がいるから柳津まで案内してあげている人もいる。かようにみちのくの人は不親切ではないことも付け加えておく。
 筆者は、鳴瀬町野蒜(明治の近代築港の先駆けである幻の野蒜港で有名)で生まれ育ち、実家は記録に残っている分だけでも約300年前から続いているが、芭蕉の記述だと「不親切で木こりや猟師しか通らない道」にあたる。しかし上述のように我が祖先達の時代もやっぱり優しい人々が多かったのである。

 木こりや猟師しか通らないような場所と言われた石巻街道沿いに育った私としても、


 次に、文中に出てくる歌枕以外のルートなどについて確認しておきたい。
姉歯の松・緒絶の橋について現在調査中。

「人跡まれな猟師や木こりしか歩かないような寂しい道」とは、石巻街道を指すと解説書に書いてある。
石巻街道は、現在、国道45号線と呼ばれているが、現在の45号線の位置とは異なり、もう少し内陸部にあった様子である。図で示すと赤の線が芭蕉が通ったルートを示している。
 黄色の線が一番古くて、東浜街道と呼ばれていた街道でその頃は、小野のあたりは海だったと推定されている。
 次に利用されたのが、緑の道で浜市を通る海端のルートである。浜街道、吾妻街道、東(あづま)街道とも呼ばれていた。多賀城国府から牡鹿郡に至るルートであるらしい。その頃、まだ赤いルートの矢本町あたりは湿地谷地であったとのこと。
そして、寛文初期(1660年代で芭蕉の通る40年位前)の新田開発によって現在の国道45号線の前身の石巻街道ができたとなっている。
 鳴瀬川は小野にある渡し舟によって渡ったらしい。以上が鳴瀬町史(899ページ)による記述である。

しかし、私はどうしても芭蕉は黄色の東浜街道を通って石巻に出たのではないかと思う。確たる根拠はないが、強いて挙げれば2つ。1つは現在の国道45号線(赤色)が以下に新しくなっていて、昔と違うと云われても、あまりに拓けすぎている。どうも不自然である。芭蕉の言う木こりや猟師が出てくるようなうらさびしい道と言えば、やはり歴史のある東浜街道(黄色)ではないかと思う。石巻街道では、明るく広々としてうらさびしさなどあまり感じられない道なのである。出てくるならば猟師ではなく褌(ふんどし)1つの漁師である。
 2つ目の理由は、東浜街道はとても古く有名なお寺などが沢山あるし、また山の中を歩くので、急に石巻のような人が沢山住む場所に出てびっくりするシチュエーションになっている。(もっとも最初から芭蕉は石巻を目指していたのだとしても)
石巻街道だと谷地だったところを進んでいくので、石巻が遠くに見えてくるだろう。現在も石巻の製紙工場の煙突が石巻街道を行くと、遠くからでもよく見える。
 それに対する反論としは、もちろん曾良旅日記の「矢本新田で喉が乾いてお湯をもらおうとしたが、断られ弱っているところに、根古村の源太左衛門という武士によって湯をもらい、石巻のはたご屋新田町の四兵への紹介までしてもらった」ことになっている。根古村は当時も東浜街道(黄色)にあって、たぶんそこで会ったのではないかと思う。矢本新田とは赤い線の新田ではなく、大塩付近の新田を指すことも可能。(矢本町の旧家に嫁に行った叔母(70歳)に聞いて見たが、新田の地名は矢本町には多く大塩付近(黄色のルート)も言うという。

 そういうことで、私は鳴瀬川を渡ったところから、東浜街道を進んで石巻に向かった。

私の以下の報告は、平成12年1月4日に行ったものである
宮城県桃生郡鳴瀬町の鳴瀬川をスタートして、岩手県一関までの旅である。


鳴瀬川を渡る小野橋。向こう松島方面。手前が石巻方面。


宮城県桃生郡鳴瀬町小野の鳴瀬川の土手から東浜街道を望む。
山の下をくねくねと古い東浜街道がある。現在でも利用されている。


鳴瀬町と矢本町の境。


矢本町にある新山(にいやま)神社。東浜街道沿い。
1091年の後三年の役に源義家に従軍してきた鎌倉権五郎平景政(かげまさ)が
この地を通った時に戦勝を祈願した場所。後に戦勝によって義家からこのあたりを賜った。
芭蕉が来る900年前の話。


 新山神社の鳥居。桓武天皇の第五皇女を奉っている。鎌倉権五郎平景政の祖先は桓武天皇にあたる。
(相模風土記による)


東浜街道を石巻方面へ進む。左や山が迫っている。少し田んぼがあって右側も山。
人家が少なく寂しい道。


矢本町から河南町に入る。東浜街道沿いにある愛宕神社の説明版。
境内には1703年の碑、法印和尚の墓の石碑(1724年没)等がある。
芭蕉が当地を通ったころと同じ時期。

 
河南町須江。東浜街道の分か道にある「道しるべ」。この付近の住人一同が建てたとある。
ここから右に石巻。左に行くと鹿又(かのまた)まちとと刻まれている。
碑には1848年とある。芭蕉が通った(?)ほぼ40年後。


河南町須江。東浜街道沿いにある塩野田館跡。中世期(鎌倉時代)の築城とある。
ここから石巻まで車で10分もかからない。


石巻市日和山にある「文学の散歩道案内板」
川村孫兵衛(江戸年間伊達政宗時代の北上川河川改修を担当)
松尾芭蕉、宮沢賢治、石川啄木、新田次郎などの碑がある。


案内標識に誘われてまずは芭蕉・曾良像へ


芭蕉、曾良像。背景は北上川河口。向こうが太平洋。ここから金華山を望んだと
奥の細道では記述しているが、実際には牡鹿半島の陰になって見えない。
手前の田代島か網地島(あじしま)を見誤ったのだろうという説もあるが、曾良の日記に
もないことから、松島あたりから見えた金華山を石巻で見たことに構成し直したのだろうと
解説書は記述しているが、多分松島からも見えなかったと思う。以下の図参照。
赤は芭蕉が通ったとされているルート。
黄色は私が勝手に(?)推測している東浜街道ルート。
石巻の日和山から見ようとしても牡鹿半島が邪魔をして実際には見えないのである。



芭蕉・曾良像


芭蕉の句碑1748年に建立。。鹿島御子神社の境内にある。
よく探さないと隠れていて見つけにくい。
雲折々人を休める月見かな
この句は奥の細道以前の、貞享二年(1685年)の作と考えられているもの。


暗くてよく見えないが、鹿島御子神社へ入る階段にある奥の細道の表示。


宮沢賢治は盛岡中学の修学旅行で北上川を蒸気船に乗ってやってきて
この日和山に登って初めて海を見た歌碑。
 宮沢賢治については、筆者のページを参照されたし。
http://morioka-shirayuri.moiroka.iwate.jp/kenji/kenji.html


解説板。明治45年5月27日にここから生まれて初めて海を見るとある。
盛岡中学四年生の時。

 
歌人斉藤茂吉歌碑。
わたつみに北上川の入るさまの
ゆたけきを見てわが飽かなくに



昭和6年11月に石巻へ。その時に詠んだ11首中の1首。



 
日和山より太平洋を望む。                日和山より北上川と市街地を望む。真ん中が中瀬公園。


石巻開港350年碑。北上川は岩手県岩手町御堂観音境内から
流れてここまで249キロある。


伊達政宗時代に北上川の河川改修を行った川村孫兵衛の銅像。

 
岩手県渋民村出身の歌人石川啄木の歌碑。
啄木が盛岡中学5年生の明治35年5月28日に修学旅行でやはり石巻を訪れて
歌を詠んでいる。宮沢賢治の10年前にここに来たことになる。
なお、啄木はアイヌ語の研究で有名な言語学者金田一京介博士に東京で世話に
なっている。
砕けてはまたかへしくる大波の
ゆくらゆくらに胸おどる洋

 
国文学者・歌人・民俗学者の折口信夫の歌碑。
昭和23年4月に神社庁の仕事で石巻に立ち寄ったときに詠んだ歌。
海のおもいいよいよ青しこのゆふべ
田しろあぢしまかさなして見ゆ

 
小説家新田次郎の歌碑。
「アラスカ物語」取材のため昭和48年7月25日に石巻を訪問している。
帰京後に礼状に書いた歌である。
北上川のつきるところのかすみには
なおとまどいの青き波かな
アラスカ物語の主人公のフランク安田は石巻市出身。よくこの日和山で遊んだと小説にある。
フランク安田はエスキモー民族(今はイヌイットと言う)のモーゼと言われる偉大な人。
ぜひ、一読下さい。


これも芭蕉には関係ないんですけれど、一言コメントさせて下さい。
日和山神社(正確には鹿島御子神社)の鳥居前の石段です。
まだまだ下には数百段あります。
筆者が高校時代(今から20年前位)よくこの階段を走らされたものでした。
高校はすぐここから400メートルほど離れた石巻高校というところでした。
高校一年生の頃は、太極拳愛好会で校内に練習場所がなくこの日和山で毎日練習しました。
また二年生から三年生までは、陸上部としてこの階段と海岸の砂浜を走ったものでした。
(取材に同行した妻も近くの別の学校の陸上部だったので、よくこの階段を走ったものだと
懐かしがっておりました。)失礼しました。


種田山頭火の歌碑。



ここから登米町に入る。
石巻から登米に至るルート


 
登米(とよま)町の登米大橋のたもとにある芭蕉翁一宿之跡碑。
石巻で一泊。次に登米で一泊している。


碑の前が北上川。橋は登米大橋。

登米町から北上川の上流を望む。
芭蕉はこの川の土手沿いに北上して一関に向かった。
ルートは写真の左側にある。本当に川に山が迫っていて道には人家がない。
「奥の細道を行く 新潮社」から引用する。
「ついでに述べると石巻から登米に行くさびしい河跡湖沿いの道は、もし私が行った時のままなら、もう一度行ってゆっくり歩きたい道である。
美しい風景もなく、これといった見るところもないが、寂しい、荒ぼうとした草原、所々に残っている淀んだ沼、丈の高いアシやヨシに吹く風の音、
そんな道が日本に少なくなっているだけに、もう一度心ゆくばかりこの土の道を歩いてみたい。」


車の中からとった写真。道に左側から山が迫っている。
右手はすぐに北上川。


宮城県登米町から岩手県一関までのルート

 
宮城県中田町上沼の地。奥の細道の標識。
ここらあたりか雨が降り出し途中から馬に乗ったものの合羽も通るほどの
大雨に見舞われたという難儀した場所。
近くには慰霊碑と湯殿山と書いた碑があった。解説がないので何の碑かは不明。


岩手県花泉町の交差点。
まっすぐ行くと三キロで奥州街道に出て一関へ行く道。
右に曲がると峠を越えて一関へ行く道。
従来は、まっすぐ有壁(ありかべ)の方へ抜けて一度奥州街道に出てから
一関に向かったとする説が有力だったが、最近右側の峠越えをしたのでは
ないかとする説も出てきていると何かの本で読んだ。
 私はいつも右側の山越えルートを通る。
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