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平泉



古来からの歌枕
袂より落つるなみだはみちのくの衣川とぞいふべかりける  読人不知(拾遺集)
歌枕とは、和歌に詠み込まれる歌語。歌題、名所、枕詞、序詞などで、
特に和歌にしばしば詠み込まれる特定の地名や名所をさす。


拾遺集とは、平安中期の三番目の勅撰集。二〇巻。撰者、成立ともに未詳。花山法皇を中心に寛弘初年頃の成立か。「拾遺和歌抄」との関連が深い。四季、賀、別、物名、雑、神楽歌、恋、雑四季、雑賀、雑恋、哀傷に部立され、一三五一首の歌を収める。万葉歌や紀貫之、大中臣能宣、清原元輔の歌などが多い。三代集の一つ。(国語大辞典 小学館)


「奥の細道原文」(京都大学の芭蕉データベース参照 ふりがなは安倍)

三代の栄耀一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有(あり)。
秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)に成(なり)て、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。
先(まず)、高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河(たいが)也。
衣川(ころもがわ)は和泉が城(いづみがじょう)をめぐりて高館の下にて、大河に落入(おちいる)。
泰衡(やすひら)等が旧跡は衣が関を隔(へだてて)て南部口(なんぶぐち)をさし堅め、
夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城(このじょう)にこもり、
功名一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。国破れて山河(さんが)あり。
 城(じょう)春にして草(くさ)青(あお)みたりと笠(かさ)打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

卯(う)の花に兼房(かねひさ)みゆる白毛(しらが)かな   曾良

 兼(かね)て耳(みみ)驚(おどろか)したる二堂開帳す。
経堂(きょどう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりどう)は三代の棺を納め、
三尊の仏を安置す。七宝(しっぽう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉(とびら)風(かぜ)にやぶれ、
金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚(たいはいくうきょ)の
叢と成(なる)べきを、四面新(あらた)に囲(かこみ)て、甍(いらか)を覆(おおい)て風雨を凌(しのぐ)。
暫時(しばらく)千歳の記念(たかみ)とはなれり。

五月雨の降のこしてや光堂


「奥の細道現代語訳」
(まだ作成中です)


「曽良旅日記」
巳ノ尅より平泉へ趣。一リ山ノ目一リ半平泉へ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ。
高舘・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂・泉城・さくら川・さくら山・秀衡やしき等を見ル。
霧山見ゆると云ドモ見ヘズ。タツコクが岩ヤへ不行(ゆかず)。三十町有由(あるよし)。
月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開(ひらかず)。
金鶏山見ル。シミン堂・无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。


以上の芭蕉、曾良の奥の細道の記述を知るには、平泉文化について若干の知識が必要である。それでは基本的なところから一緒に押さえておきたいと思う。

その前に平泉の地図を作りましたので、こちらを見ながらご覧下さい。
平泉の地図

 芭蕉、曾良は平泉ではなく南の一関(いちのせき)(現一関市)に宿泊している。
前日は豪雨の中を宮城県の登米から大変な距離を歩いて来ている。この登米と一関の間は、
一関街道と呼ばれる道で、1999年の現在でも使われているルート(国道342号線)であるが
大変寂しい道である。私も通常よく使用しているが、夜は真っ暗である。
 これは、大変な距離である。カーナビソフトを使用して机上で調べたところ、
39qで車だと1時間33分かかるとのこと。この場所はなだらかな山が連続しているので、
さぞかし大変だったろうと思う。300年前に二人でどうやって励まし合いながら歩いたのだろうか。
 さて一関に宿泊し、平泉の中尊寺までは、10qある。そこへ1日かがりで日帰りで史跡や
歌枕を訪ねに行っている。豪雨の中を40q近く歩いた翌朝に早く起きてまた10q歩いて
平泉見学に出かけている。やはり相当、平泉にかけるものがあったのだろう。


次に見たもの、(見なかったもの)などをあげて簡単に説明し芭蕉の句、及び文を理解する助けとしたい。


見たもの
1 「三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有(あり)。」
「三代の栄耀」とは、平安末期の約100年間に渡った平泉文化を担った藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡の
四代中の最後の三代を指す。泰衡で藤原文化は滅亡する。

この平泉の文化の特徴は三つあって、
1, 蝦夷、みちのくと呼ばれて文化の存在しないところとされてきたところに
都に匹敵するほどの独自の華麗な文化が開花した点、
2, 東北の統一、
3, 日本史上の黄金文化の典型をなす「皆金色文化」である。
   (金色堂や「紺紙金銀字交書一切経」などが有名)
この「大門の跡」というのは、「何の大門の跡」なのだろう。手元の本にそれらしい資料がなかった。

2 「秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)に成(なり)て、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。」
「秀衡が跡」は、「伽羅の御所(きゃらのごしょ)」のこと。文字通り秀衡の居館であり、
泰衡もここに住んだが、1189年源頼朝に攻められて火を放って敗走した。
無量光院の一郭に位置する。伽羅の名前は、館の材の一部にキャラ(香木でも最高のもの)を
使用したとか、唐風(からふう)の造りだった等の説がある。

 初代清衡・二代基衡の居所が「柳の御所」、三代秀衡・四代泰衡の御所が「伽羅の御所」と押さえよう。

 「柳の御所」は、義経が頼朝の追求を逃れて再び秀衡を頼った時に、はじめのうち、
この「柳の御所」にいたと言われている。高館のふもとにあったが、1189年に頼朝に
攻められ逃げる泰衡が火を放って焼失。翌日に頼朝が平泉に入ったときは灰燼に帰していたという。
現在は北上川の河床にかかっていて発掘調査が進められている。

3 「先(まず)、高館(たかだち)にのぼれば、北上川、南部より流るゝ大河(たいが)也。」
 高館義経堂(たかだてぎけいどう)。「たかだち」とも読み、さらに判官館とも言う。
源義経の居城跡で最期を遂げた場所。丘の上に1683年(芭蕉40歳)の時に、
仙台藩主伊達綱村が建立した義経堂があり中に義経像がある。
館の跡は、北上川の流れに削られて現在は絶壁となっている。古戦場が一望できる。
南部というのは、南から北に流れるのではなくて、昔岩手県は南部氏が支配していたため、
北の方を南部(氏の方角)と言った。

4 「衣川(ころもがわ)は和泉が城(いづみがじょう)をめぐりて高館の下にて、大河に落入(おちいる)。」
 地図参照。大河は北上川のこと。北上川は長さ249qで日本で第4位の大河川。

5 「泰衡(やすひら)等が旧跡は衣が関を隔(へだてて)て南部口(なんぶぐち)をさし堅め、
夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城(このじょう)にこもり、
功名一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。国破れて山河(さんが)あり。
城(じょう)春にして草(くさ)青(あお)みたりと笠(かさ)打敷(うちしき)て、
時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」
泰衡等が旧跡は、同じように伽羅御所。北側に秀衡の居所、南に泰衡の居所があった。
南部は南部氏の方角つまり北側。だから夷(蝦夷とも書く、「えぞ」とか「えみし」と読む。)は北方にいる。

6 「兼(かね)て耳(みみ)驚(おどろか)したる二堂開帳す。経堂(きょどう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりどう)は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。」
光堂は、中尊寺金色堂のこと。
中尊寺は、1109年 清衡が起工して16年の歳月をかけて1124年に竣工した。
清衡・元衡・秀衡三代の遺体(ミイラ)が安置されている。他に泰衡の首もある。
1288年金色堂保護のため覆堂(おおいどう)が作られた。
昭和43年に金色堂の復元修理が行われたため鉄筋コンクリートの新覆堂が完成したため、
旧覆堂が取り外された。その後、旧覆堂は重要文化財として保存された。
金色堂の脇、経蔵への道の左側に芭蕉句碑がある。 五月雨の降残してや光堂 

詳しくは、ホームページを出しているので、そちらを参照されたし。
中尊寺のホームページ http://www.kpc.co.jp/chusonji/

中尊寺東物見台に束稲山(たばしねやま)に向かって西行の歌碑(歌人の土岐善麿揮毫)がある。
     ききもせず束稲やまのさくら花 よし野のほかにかかるべしとは 西行詠
地蔵堂にもおなじ西行歌碑(歌人・国文学者の尾山篤二郎揮毫)がある。
 他に、弁慶堂、宮沢賢治句碑も中尊寺内にある。

無量光院跡(新御堂と呼ばれる。曾良が「シンミ堂」と記述している。)
 宇治の平等院鳳凰堂を模して秀衡が建立した寺院
卯の花清水と曽良の句碑 東北本線踏み切り際にある。卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曽良


芭蕉が見てはいないもの

毛越寺(もうつうじ)
毛越寺のホームページ http://www.kpc.co.jp/motsuji/
芭蕉は行っていないらしい。
850年慈覚大師の開基。基衡が七堂伽藍を建立。秀衡によって完成。
広大な規模は中尊寺をしのぐほど。その後度重なる災禍にあい建物は殆ど残っていない。
山門を入ると「夏草や兵共が夢の跡」の碑が二基ある。
なお、岩手出身の新渡戸稲造による英訳は以下の通り。
The summer grass-
It is all that's left of ancient warriors dreams

達谷巌(たっこくのいわや)
詳細は、以下のホームページを参照されたい。
http://www.town.hiraizumi.iwate.jp/kanko/kan_tat.html

他に平泉のガイドとして平泉町のホームページを参照されたし。
http://www.town.hiraizumi.iwate.jp/
 内容は、「私の平泉紀行」として大仏次郎 (おさらぎじろう)、井上靖、杉本苑子、
小野寺公二、中津文彦各氏のエッセイが掲載されている。芭蕉関連では、「『おくのほそ道』と芭蕉」
というエッセイがある。また吾妻鏡の平泉のくだりがある。
 平泉の歴史についは、同ホームページの歴史の項を参照。
特に「平泉の世紀」・「平泉藤原氏関係年表」は簡潔にまとまっていて利用しやすい。


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